たべもののはなし

食べることばかり考えてる

あんみつと受験生の葛藤

休日に乗じて、文を書こうと思った。書くならば食べ物がいいとすぐに決めた。食べるのが好きだからだ。食べることって大好き。ほんとすき。何も考えてないときって何も考えてないようで食べることばかり考えてる。

 

ただ、せっかくなら続けたいし、それならお題に沿って書くのがいい。なので、「あいうえお」に沿って食べ物を挙げていくことを考えた。

なお、

「を」「ん」

についてはあまり考えてない。

 

そういうわけで初日は「あ」から始まる「あんみつ」。

 

あんみつには揺るぎない記憶がある。

目指していた大学の近くに有名なあんみつ屋さんがあり、受験合格の暁にはあのあんみつ屋さんで一番美味しい(=高い、だった。当時は)あんみつを食べようと誓って日々励んでいた。なんたる食い意地だろうと思う。

 

そういえば、18までの人生でお店に入ってあんみつを食べることなんてなかった。

 

それまでのあんみつとは、発泡スチロールのカップに入ったお土産を祖母が買ってきてくれるものであり、豆があまり美味しくないものであり、さくらんぼが紅色、むちむちの求肥が一番美味しくて、寒天の水を捨てる一手間が楽しくも煩わしくもあり、あんこも黒蜜も甘く、というより構成する要素が全て甘く、最初は各々が独立した味を主張するが最後の方は寒天の水分にそれぞれの甘みが溶けてひとつになって、それを堪能し切るころに終わる、そんな食べ物であった。ああ美味しい。なんであんな美味しいんだ。


なので、「お店のあんみつ」という概念は非常に興味深いものであった。

大体のお店の食べ物は家で食べるのとはだいぶ違う(それぞれに美味しい)。

 

月日は過ぎ、無事大学には受かった。

書類を手に、晴れて母とあんみつを食べにいくのである。

「お店のあんみつ」を。

 

階段を上って席に着き、お品書きに目を通す。

私は一番美味しい(=高い)のを食べるって決めていたけど、それでも見る。

 

ここで現実に直面する。

一番美味しそうに映るのは一番高いものじゃなかったのだ。

 

葛藤した

 

一番高いメニューを食べたい一心であんみつ屋さんに来たのに、

そのときは全然心惹かれない。

でも私の夢は一番高いものを食べるであった。

 

若かった。

悩むには十分すぎるほど、若かった。

だって、受験直後の18歳。高校生。

大学生活ほぼ最初にぶちあたる夢と現実のギャップが

「食べたいあんみつが思てたんと違う」

なのはなんなんだよって感じだけどとにかく悩んだ。

 

しかもこのときは「今この瞬間」と「将来」ではなかった。

「将来」は現れも消えもしないが、「その瞬間」というものは二度と戻らないので大事にできる気もする。

でも、私は「一番高いあんみつ」に向かって走ってきたのだった。

少なくともそれを励みに受験勉強するほどの時間はあった。

その積み重ねを、揺るがすほどの欲望。

 

具体的には「フルーツクリームあんみつ」と「杏クリームあんみつ」である。

790円と720円。

杏大好き。なんであんな美味しいの?あんず。

杏は秀でている。君のようになりたい。

 

「今はものすごく杏がいい。でも「一番高い」を目指してきた日々を裏切りたくない」

という思いと、

「今これ食べたら絶対幸せになれるものを、過去に縋って逃すのか?」

という思いがぐるぐると巡る。

 

ここで、母にその胸の内を打ち明けた。

こういうとき、母は強い。

 

「え?また来ればいいじゃん」

 

あっさり。

 

そうだよねそうだよねそうだよね、

だって私ここの近所に毎日通えるんだもん!バイトだってするもんね!

お店は老舗だしこれからもあり続けるよ!だってこんなに大盛況!

そうだよそうだよ私には未来がある!ご縁がある!また来ることができる!

なんてこった!!それならば・・・・・・!

 

 

 

私のあんみつというものは大学生活の始まりであり、

夢と現実のギャップに対する贅沢な悩みを惜しげも無く注いだものであり、

一緒に冬の日々を戦ってくれた母との勝利の乾杯であり、

未来がある喜びを教えてくれた存在である。

 

あんみつ、大好き。