たべもののはなし

食べることばかり考えてる

りんご飴って本当にあるの?

りんご飴。タイトルの問いは、長らく私が抱き続けてきたものだ。

 

私の見聞きしてきた色々な娯楽作品において、えてしてりんご飴というものは魔法のような描かれ方をしていた。小さく丸く、どこまでも赤い。そして透明の飴を纏い、しっとりと輝く。全ての呪いを解くような甘さ。幼心に、もうそれはそれは憧れた。

 

なんか憧憬とか、非現実とか、そんな情景が似つかわしい食べ物である。例えばいわゆるラピュタパンのように、現実に存在する食材をモチーフとしたファンタジー世界の食べ物だったりするのだろうか?とすら思うほどであった。最も身近な夏の夜の非現実であるところの夏祭り、そこにあるあんず飴を想起させる語感から、りんご飴という言葉の向こうに香り立つような夜の景色を想っていた。

 

しかしりんご飴には会えずにいた。あんず飴の屋台には不自然なくらい美しい水色のあんず飴や色味はきっと近しいであろうすもも飴はあってもりんご飴はなかった。スーパーや八百屋さんにあるりんごは飴として嗜むには大きすぎるものばかり。通っていた保育園の庭には姫林檎があったが酸っぱくてとてもとても。りんご飴って本当にあるの?と本気で想った。

 

とにかくりんご飴、食べてみたかった。しかし、10代の終わりの頃まで見たことすらなかった。

 

りんご飴との邂逅はいともあっさりしたものだった。家でゴロゴロしていたら妹が「お姉ちゃん、りんご飴があった。買ってきた」と行って私の前に置いたのだ。えいひれの話のときもそうだったが、妹はすごくあっさりと憧れの食べ物を恵んでくれたりする。

 

「えっ、りんご飴って、あのりんご飴!?」

「そうだよ。あのりんご飴。正真正銘のやつ」

「え、えええ、」

「私もう食べたんだけどさ」

「どうだった!?」

「すごく美味しいね。食べてごらんよ」

 

ワクワクしながら開けた白いビニール袋。そこにいたのだ、りんご飴。本当にあったのだ、りんご飴!片手にすっぽりと収まりそうなサイズの真っ赤なりんごが、食紅を入れたであろうピンク色の飴にツルンと包まれてキラキラしている。綺麗で可愛くてとても感動した。

 

一口、齧る。齧るという動作のお手本のような齧り方であったと思う。パリ、と飴が破けりんごの香りが顔の周りで弾ける。口いっぱいにりんごの甘酸っぱさと飴の甘ったるさが広がって、咀嚼のたびにシャクシャクと小気味好く楽しめる。「美味しい!」と素直に感嘆した。普通のりんごみたいな大きいサイズもあるんだってよ〜、と妹は教えてくれたが、このサイズも含めて美味しいのだと実感した。芯が残ったって全然嫌じゃなかった。

 

素敵な食べ物だった、思っていたよりもずっと。なんてことない夏のどんよりした夕方にりんご飴が現れただけであんなにも胸がときめいた。私はやっぱり食べるという行為が好きだ。

 

なぜかそこからというもの、りんご飴と遭遇する機会は増えた。横浜に出かけた先でりんご飴の専門屋台があったり、鎌倉観光で立ち寄った鶴岡八幡宮でりんご飴が並んでいたり(ぶどう飴という屋台もあった。今度食べたい)。新宿にあるポムダムールトーキョーというりんご飴の専門店もなんかのきっかけで知り、いつかデートで行きたい場所リストにしっかり入っている。

 

憧れが憧れを超えてきたときの感動を教えてくれた小さなりんご飴。あの赤さ、甘さ、全部にありがとうって思っている。何度でもまた会いたい。

 

りんご飴、大好き。