たべもののはなし

食べることばかり考えてる

パッタイの夜、それは誰かのかけがえのない夜

過ぎ去りし春の日の話である。

 

日々ティータイムを嗜みつつ働く私だが、その日はうっかりお昼を食べ損ねてしまった。そのまま午後を溶かし、日暮れを見送り、気づいたら夜も夜であった。手元のマグカップティータイムなんて生半可なもんじゃない、命綱だ。香り付きのお湯がこんなにも意識を保つのに役立つと思わなかった(おおげさ)。

 

畜生、私が弁当を持参していなかっただけ良かったと思え…と1000000回くらい思いながら、その日は仕事場を後にした。なぜ弁当を持参しなかったことが良かったかというと、持ってたのに食べられなかった、とか、食べ損ねたら腐らせてしまった、などというまた別のダメージを喰らわずに済んだからだ。長時間の仕事を見据えての備えが弁当を作らないことなのは、なんとも情けないな…。

 

そんなことは良い。仕事は無事に終わったのだ。ちゃんと終わったのだ。つつがなく終わったのだ。素晴らしいことだ。

おまけに私はびっくりするほど、多分この街区で一番だと言ってもいいほど、お腹を空かせている。つまりこれは大量にご飯を食べるチャンスに他ならない。持たざることは恥ではなく満たす余白があることなのだ。最高だ。好きなものを腹一杯、いくぞ!…この切り替えの、早さよ。

 

私が向かったのは愛してやまないタイ料理屋、吉祥寺のアムリタ食堂だ。幾度となく訪れたその店、大好きなお味付け。開放的な店構えも1人での来店ウェルカムなところも好きっ。今日は栄養もダイエットも知らない。池の水全部抜くならぬ、好きなもの全部食うだ。

 

欲望のおもむくままに私が頼んだもの。シンハービールパクチーサラダ、トムヤムクンパッタイ。大事なことなのできちんと明記しておくが、トムヤムクンパッタイは2〜3人で食べてもちょっと多いくらいだ。私の心は踊っている。跳ねている。愛するタイ料理屋に夜に来たせいですこんな心。

 

タイ料理は運ばれてくるのが早いからありがたい。シンハービールで喉を潤し、鼻を抜ける爽やかな香りのパクチーサラダをまずは平らげる。あ、余裕ですね、と内心ほくそ笑んだ。シンハービールパクチーも淀みなく体に取り込まれてたいそう気分が良い。

 

続いてトムヤムクン、これがまた美味しい…良く煮込まれた野菜がゴロゴロと入っている。透き通る玉ねぎをシャクシャクやって、次にまん丸のマッシュルームをかじる。有頭エビはちょっともったいなくて取っておくふりをするが、誘惑に耐えられずまずは一尾。これが、うまい…出汁が出まくってるにもかかわらず風味豊かな頭の殻を味わい、プリプリを超えてブリンブリンな身にかぶりつく!香りも味わいもスパイスたっぷりのスープに司られて、もうどうでもいいなと思ってしまいながら手と舌と脳はフル稼働。たまらん。

 

さぁ、お待ちかねのパッタイ。大皿にドーン!である。たまらん。こういうのはあったかいうちに食べるのが良いねと箸が進む進む。野菜もエビも卵も麺も絶妙なバランスの味付けによって素晴らしく美味しい。そこにナンプラーアムリタ食堂はテーブルに調味料が置いてあり、普段は人目を気にしてあまり使わなかったりするものの今日は無礼講とばかりに一口ごとにひとさじ、ナンプラーをかけていただいた。むくみなんか知らない!私は今日良く働きました!えらい!

 

楽しく食べていたら隣のテーブルの女子二人組から視線を感じた。1人で、この量を…?という視線だったと思う。そうだぜ?たくさん食べるのは最高だ!

 

ところで、炭水化物を〆に持ってくるシステムにすっかり慣れた体は条件反射でパッタイにより完全な満腹臨界点を超えた。形ばかりとはいえ節制を心がけていた身にこの感覚は久し振りで、ものすごく幸せだったと同時に体の重さにものすごくびっくりした。ごちそうさまでした。食休みを少ししたもののやはりこのままでは帰れない。

 

そうだ!井の頭公園は桜の名所だった。今日は桜が綺麗なはずだ、ぜひ見に行こうと思い席を立った。

 

会計を済まし、外に出る。普段あまり外食をしないため、最新の外食時の記憶は外に出た瞬間肩をすくめるほどに寒かった。それがない。ひんやりと心地よい空気にあちこちで咲く花の香りが漂う。吉祥寺の店は大体20時で閉まる。街全体が早く眠る場所のため静かだ。

 

幸せだな、と思った。居場所と役目があって、一生懸命やって、自分で稼いだお金でお腹いっぱい好きなものを、それも異国の料理を食べて、春の夜を1人で歩いている。かけがえのない夜だった。まぁこの当日は「この感じgood〜」くらいの語彙でお腹にばかり意識がいっていたが、つまりはそういうことだ。

 

井の頭公園に至る道はいくつかあるが、マルイの脇から入って古着屋さんやカフェが軒を連ねる一角を通って行くのが好きだ。そうして向かう道すがらすれ違う人々…

 

…おそらくお互いに意識しながら決定的な一言を交わせず、そのまんまこの時間になってしまったであろう若い2人組の、多さよ…!!無言なのは下手な話題を出してしまってはこの美しい夜が終わってしまうことが分かっているから、そんな2人組の……多さよ………!!

 

眩し〜〜!!かたや私は労働の末に腹一杯のパッタイを詰め込んで腹ごなしのネオ散歩だ!!年を重ねて想いを言葉にすることの楽さを知ってしまった、ねぇすれ違う君たち今夜好きなもの食べられた?昔の私だったらなぜだか恥ずかしくて出来なかったよ、でも今夜はやっちまった!!サイコーの気分だ!!

 

前述の通り私の夜もかけがえなかったがその日の夜は桜が満開で、そんな季節に好きな人とふたりで歩く夜もきっとかけがえのない夜だっただろう。

 

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それぞれの夜の価値なんか誰にも測れない、ただし等しく訪れる。そんなことを思いながら納めた満開の桜は、海の底みたいだった。

…なんてかっこつけたことを言ってるが、この瞬間もパッタイではちきれそうだったのは秘密である。

 

パッタイ、大好き。