たべもののはなし

食べることばかり考えてる

オレオが教えてくれるもの

オレオは不思議な食べ物だ。

 

あの真っ黒けなビジュアルとほろ苦い風味、コクのある甘いクリーム。お菓子として十二分に魅力的だが、丸のまま食べたこと、もしかして少なくないだろうか。

 

オレオは可変性がたいへん高い。平たい言い方をすれば砕かれがちである。世にある「オレオ○○」のオレオは大概「ほぼ粉やんけ」レベルにまで細かく砕かれてるし、砕かれてなかったとしても割られている。よくもまぁそこまでしておいてオレオの名を借りるなと思うほどの細かさ、文字通りの粉砕。

 

しかし不思議なことに、どんなに細かくなっていようとそこにオレオの存在を確かに感じるのだ。そしてその風味を期待し、求めてその商品を購入する。口の中でザラッとした食感を覚えるたびに、オレオだなぁとしみじみ美味しい。調味料みたいだなと思ったが、例えば塩や砂糖が入っているものを食べても「塩だわ」「砂糖だわ」とあえて感じ入ることはあまりない。しかしオレオはオレオだ。

 

そう、オレオはオレオなのである。砕かれようと、割られようと、ケーキに入れられようとドリンクに混ざられようとクリームから剥がされようと牛乳につけられようとアイスを乗せられようと、オレオだ。

 

そして私たちはオレオの何かを求めるとき、純度の高い存在感としてオレオを求める。いちごみるくのイチゴとオレオ味のマックフルーリーとじゃ、断然後者のオレオの方が輪郭が鮮明だ。また、「クッキーアンドクリーム」のように先方がオレオを自称していなくても察知する場合さえある。あぁ、気高きオレオ。

 

突然だが、愛について考えることはあるだろうか。

 

先んじて申し上げると私はあんまりない。普段の生活の中でふと考えるにはあまりにも難しいテーマすぎるし、定義を想うにはあまりにも壮大すぎる。込み入った議論を避けたいわけではないけれど、普遍的に存在するものほど腰を据えて語るハードルは高い(だからこそ普遍であり憧れるとも言える)。

 

この歳まで生きて、巷で語られる愛というものにはいくつもの種類があることを知った。たとえば、「どんな姿でも愛する」という形の愛。美女と野獣の物語やカエルの王子様に始まり、どんな髪型でも可愛いと思う気持ちやそこに文字列しかない相手からの連絡すら愛しい、そんな類のものだ。

 

時と場合によっては究極の愛とさえ言われるその気持ちを、私たちはオレオを求める時に無意識に発動しているのではないかと思うのだ。例えどんな生地に混ぜ込まれていようと、どんなに細かく砕かれていようと、その瞬間確かに求めるのはオレオなのである。極めて純粋なオレオを欲する気持ち。それは愛ではないのか。

 

と、ここまで書いてふと待てよと思う。

 

少なくとも私の場合、チョコレートなどと違いオレオを単体でボリボリムシャムシャと食べるのが好きだという理由から求めるのではなかった。オレオの歯触り、風味、そんなものが欲しくてオレオのエレメンツを求める。

 

そしてそれを愛に当てはめた時、まぁその歪さときたらない。なぜって本人ではなく本人の面影を求めるのだ。立ち姿、服の好み、笑い方、香り、そうした本人ならざるものに想い人の存在感を見出して求めているのでは?それってちょっと、いや相当、アレなのでは???

 

…オレオが教えてくれるもの。それは、愛というものの確かさや不確かさなのか…?

 

いやいや。オレオ食べずに考えるからこうなる。オレオ食べてみると「ほろ苦くてサクサクした塊は乳製品とめちゃくちゃ相性がいいってはっきりわかんだね!」以上の言葉は出てこない。強いて言うならば、「スイートはもとより、たまにはビターでハードも美味しいんじゃない?」とかか。

嗚呼、人生!

 

オレオ、大好き。

 

そして今日でブログ始めて1年になりました!1年前は暇な休日だったと思うとすごく不思議。これからも好きな食べ物のこと書きます、時々見てね!