たべもののはなし

食べることばかり考えてる

葡萄でお腹いっぱいになったことがあるんだぞ、私はよ

バスツアーがアツい。バスツアーはすごい。

 

私の友達が、自称「バスツアーの猛者」という凄まじい人物から受けたプレゼンの、冒頭である。

 

インパクトが凄すぎる。どんな始め方だよと思わずツッコミを入れたが話は止まらない。バスツアーは、すごいらしいのだ。何故ならば、座っているだけで美味しい食べ物や素敵な景色のある場所に次々と連れて行ってもらえる上に日帰りで帰ってこれる。不思議な気持ちになるくらいヤバい。あれを楽しまない手はないと。

 

ふーんそうか、と聞いていたが、そんなのそこまで言われちゃもうバスツアーは頭の片隅に常に居ることになるに決まっている。次遊びに行くときは絶対バスツアー行こうなと約束した。

 

で、行った、秋の山梨バスツアー・・・これが、前評判に違わずのめくるめく座ったまんま美味景観ツアーであり、凄まじい多幸イベントであった。数々のデリシャスシングスに恵まれた日であったが、今だに忘れないのは葡萄の美味しさである。

 

早朝の新宿駅からしばらく揺られて最初に到着したのは、葡萄畑だった。

バスを降りて見上げると、停車場の上に藤棚のように葡萄が実っている。しなやかな枝の間からは澄み渡った秋の空が見えた。

あぁ、これを見て、昔の人は「たわわ」と表現したのだろうか。天才やな。たわわでしかない。テンションは早くもハイボルテージ。

 

葡萄狩り食べ放題ということで、"狩場"に連れて行っていただいたが、一面に鮮やかな緑色のなかに紙に覆われた葡萄たちがぶら下がっている光景はものすごく神秘的だった。今も不思議なくらい体が清々しさを覚えている。

 

そして、葡萄という果物は記憶の中のそれよりもずっと大きくて驚いた。友人たちと「これ、こんな大きい葡萄を、え、1人で食べていいんですか?それも食べ放題…?」とワクワクを通り越して畏怖のような気持ちになった。思い起こせば、ひとふさを1人で食べたことはなかったのだった。

 

まずは一粒、と食べたらあまりにみずみずしくて美味しくて幸せで、なにもかも忘れてしまった。赤っぽい紫の薄皮をむくと宝石のような果肉が現れ、香りがいっぱいに広がる。口に含むとめいっぱいの果汁がはじけて、甘みと酸味が複雑かつ絶妙に訪れる。秋の青空の下、ひんやりとした空気の中で食べた葡萄はとにかく美味しかった。美しい味と書いて美味しい、まさにそんな味だった。

 

で、そんなステキなものが食べ放題なのである。もう夢中で食べたつもりだったが、ひとふさに粒がそもそも沢山付いていて毎回美味しく、正直なところそれを食べきった時点で相当な多幸感と満足感なのである。

 

しかし私は根が強欲な壺なので、もうひとふさに手を伸ばす。今度はマスカットに似た色の品種で皮も薄く、これがまた…先ほどのものは酸味が少し強かったが、こちらはとにかく甘く、かと言ってしつこくなく香りが爽やかだ。たまらず次々食べた。途中あまりにいい香りをさせすぎてめちゃくちゃデカい蜂が近づいてきても「そりゃそうだよな!!」と言いながら元気に逃げ惑うくらい幸せだった。

 

それまでは葡萄でお腹いっぱいという現象は信じがたかったが、世の中にはたしかに現象として存在し私もまたそれを体験する1人となった。でももうあれは不思議だ、お腹が満たされてるのか心が満たされてるのかわからなくなってしまう。多幸感なんだか満足感なんだか満腹感なんだかわかんなかった。とにかく楽しかった。

 

しかし、バスに戻った時のことである。今思い出しても素晴らしいツアー会社にお世話になったのだが、戻った私たちの席には1人一口分ずつ冷凍の葡萄が置いてあった。頃合いを見極めて置いてくれたのだろう、カチカチではなくフローズンと言うべき絶妙なバランスで凍っていた。

 

そこで私たちは気づいたのである。あ、葡萄か…という自分たちの心の動きに。

 

そして確信した。これは「もう食べきれないよ〜〜」という時の気持ちに極めて近いと…。楽しさに溶けていた満腹感が一気に訪れた瞬間だった。

 

とにもかくにも豊かな時間であった。なのでいまだに葡萄でお腹いっぱいになった経験はちょっと自慢げに話しがちな人生の宝物なのである。そしてときどき辛いことがあっても、「葡萄でお腹いっぱいになったことがあるんだぞ、私はよ」と奮い立っているのだ。

 

葡萄、大好き。