たべもののはなし

食べることばかり考えてる

カフェラテ飲めるようになっちゃったな

実にちゃんと会うのは14年ぶりの地元の友人とひょんなきっかけでまた会うことになった。地元というのは狭いコミュニティのようで、一度外界を定位置とするとあまりにも遠ざかる。不思議なものだ。

 

久々に昼間訪れた地元商店街には新しいカフェができていて、そこでお茶することにした。久々に会った彼女は相変わらず陽気で、当時は知らなかった話しやすさがとても魅力的だった。もっとはやくに会ってればなぁなんて思うくらいだった。

 

暑い日だった。いつもならそこでアイスティーを注文するところだが、向かいに座る友人はメニューを見てすぐに「あ、カフェラテにしよっと」と決めてしまった。

 

カフェラテは正直飲まず嫌いというか、馴染みのない飲み物だった。コーヒーが得意でないが故に遠ざけていた飲み物だったけれど、そういえばそのものの味を知らないな、と思った。メニューを見てすぐに決めるほど美味しいのかなと興味が湧き、初めて注文したのがその時である。

 

お互いピアノを習っていたくらいの共通点のあった私たちはお互い別のフィールドで働くようになっていた。コーヒーを普段あまり飲まない旨を伝えると、彼女もそうだったが仕事をしていくうちにコーヒーが好きになったのだという。先輩たちが食後に飲むのに付き合っていたらすっかり好きになってしまったんだよね、でも満腹感が落ち着いてとてもいい感じ、と。

 

運ばれてきたカフェラテは、なんというか美しかった。淡くも深みのある薄茶色の下に、真っ白なミルク。境界は大理石みたいに入り混じっていて綺麗だ。かき混ぜるのが惜しい。ガラスの器はその様子がよく見えるから良い。外側についた結露さえ甘く透き通って見えた。

 

一口飲んだそれは、確かにコーヒーの風味はするが、思ってたよりも苦くなくむしろ飲みやすい。本当ならあったかくして飲むであろう液体が冷たいのはとても贅沢だなぁと思いながら堪能した。その一杯であっという間にカフェラテを好きになってしまった。生きているもんである。

 

それ以来、カフェラテは実に美味しく飲んでいる。友人にそのことを伝えると、いいね、大人になったね、大人になるのは楽しいもんだねと言われた。

 

小さい頃、大人というものは決していいものではなかった。「大人の話」は「あんたに関係ない」だし、「大人っぽい」は「似合ってない」だし、「大人の味」は「まずい」だった。

逆に、「子供の話」は「夢」で、「子供っぽい」は「愛らしい」だし、「子供の味」は「甘くて美味しい」もしくは「お子様ランチという贅沢」だった。

 

しかし成人をとうに過ぎ、大人になった今、大人という単語は良いものを語る文脈で用いられる。例えば上質とか、寛大とか、シックとか、贅沢とか、そういう感じだ。今や大人の味は、複雑で味わい深い、美味しいものという意味だ。

 

ちなみにどれも好きな言葉たちなので嬉しい。しかし、大人になった実感というのは、大人という単語をポジティブな意味で使うのがしっくり来るところにあるんだなぁと思った。今や子供というワードは使い方が難しい。身を置く立場にまつわる単語をよく捉えるのは、言葉の妙だなと思う。

 

地元にはこれ!といった素晴らしい記憶があるかというとそうでもない。しかし、「大人」になって、いい意味で全部どうでもよくなった。どうでもいい、けどなくなったら困る私の故郷だ。

当時かかわりのあった人たちも、その後どうなったかとかは別によくて、みんな健康で幸せでいてくれたらそれでいい。そう願っている。たぶん、選択の余地なく日々の中に存在したものたちだからかなぁと思う。

 

それに反比例するように、自分で選んできたものたちに対する想いは年々募っていく。自分で選んだ服や持ち物、言葉遣い、居場所、家、食べ物、周りにいてくれる愛しい人々。自分で選んだからという理由だけで愛しているわけでは決してない。巡り合わせの末に共にあることを決めた、ないし決めてくれた。

そのことが本当に嬉しいのだ。

 

だから、カフェラテも大好きだ。友人に再会してあのカフェに行き、友人が即決しなければ私はそのはカフェラテを選ばず、あの美しい液体の味をまだ知らない。ご縁というのは不思議なものだ。

 

カフェラテを飲めるようになっちゃった大人の私自身を愛せるように、日々をよく生きていようと思う。

 

カフェラテ、大好き。