チャーハンから生まれる世界
そろそろチャーハンについての愛を語ろうかな〜〜ッと思ってブログ編集画面を立ち上げ、「チャーハン、それはカオスである」な〜んてイイじゃない?とか思いながらなんとなく調べたカオスという言葉は、使おうと思っていた意味合いとは少しお門違いであった。
その前にチャーハンへの愛を一旦書き記しておく。チャーハンは良い。すこぶる良い。何を入れてもチャーハン、すなわち美味しい炒めご飯になる。お米と油と、強めの炎があれば後はなんでもいい。わざわざ買ったチャーシューでもよし、卵は米を包んでても包んでなくてもよし、かと思えば余り物の野菜、なんなら野菜は野菜でも皮とかで良い。そしてちゃーんと美味しい。懐の広い料理である。
「チャーハンはカオスを成立させる」という結論に導きたかったその文において、しかしカオスという概念は私の思う様相とは少し異なるのであった。
私にとってカオスという言葉は、近しい概念で言うと無秩序な散らかりであった。たとえば、手もつけられないほど散らかった部屋はいわゆる私にとってのカオスである。あるいは、餃子とコーンクリームスープと炊き込みご飯と茹でブロッコリーと桃、みたいな食卓、これも私のカオスである。
しかし、カオスというのは無であった。
もっと分かりやすく言うと、場であった。
Wikipediaにはこうあった。
「世界(宇宙)が始まるとき、事物が存在を確保できる場所(コーラー)が必要であり、何もない「場」すなわち空隙として最初にカオスが存在し、そのなかにあって、例えば大地(ガイア)などが存在を現した。」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カオス
難しいことは私にはわからないが、なるほど、無秩序というよりは無秩序が存在しうる場と言えば良いだろうか。この論理でいくと先述のカオスな食卓はメニューがカオスなのではなくテーブルがカオスなのかな。
そしてチャーハンに想いを馳せると、しかしそれでもチャーハンはカオスであった。何を入れても大丈夫なフィールドとしてのチャーハンを幾度となく経験して来た。とりあえずチャーハンにしとけば、普段あんまり一緒に食べない食材や賞味期限が危うい食材もチャーハンたりうる。事物の存在する場としてのチャーハン、すなわちそれは場としてのカオスであろう。
しかし、ただ米をそれだけ炒めたものではチャーハンではない。秩序の有無にかかわらず、点々と食材が存在するからチャーハンなのである。つまりは、許容する場としてのチャーハンと、事物の存在が認識されて成立するチャーハンというふたつの概念があるのだ。
そんなことを考えている間にチャーハンができた。ネギと卵と余った合挽き肉とイタリア土産のチーズとしいたけ。味付けはバター醤油。美味しい。暇な休日に作るチャーハンほど甘美なものはそうあるまい。
面白いのが、雑多な世界を成立させるチャーハンは、しかし結果もたらす感情はよほどなことがないかぎり「美味しい」一点に帰結するのはどうも面白い。世界中のチャーハンを図示した数多の点から線が伸び、美味しいの一点に向かう図を想像している。こんなわけのわからない思考も、美味しさの前には消し飛ぶ。恐ろしい感情だ。
チャーハン、大好き。