たべもののはなし

食べることばかり考えてる

noteにお引越ししました!

いつもたべもののはなしをお読みくださり本当にありがとうございます。

 

3年ほどここに書いてきましたが、このたびnoteで新しく書いていくことにしました!

遠山夕立|note

 

長い文章を書く機会がほとんどなく、思ったことを文で残す練習をなるべく楽しくやりたいなと始めたこのブログ、気づいたらとても大切な息抜きになってくれて、まさかこんなに長く続けられるとは…という気持ちです。

 

読んでくださった方やスターをつけてくださった方に心から感謝しつつ、これからも食べ物を美味しく食べて思い出を楽しく書いていきます!楽しんでくださったらとても嬉しいです◎これからもどうぞよろしくお願いします。

ポッピングシャワー同時に何個食べたことある?私?3つ

恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』を久しぶりに読んだ。

 

 

劇中で描かれているコンクールの中で、コンテスタントたちは自分を表現するために制限時間の中で3曲を選んで臨む。その選曲ひとつとっても情景が浮かぶような恩田さんの筆致。才能というものや、音楽に限らず何かに向き合うことついて考えさせられる大好きな小説である。

 

制約の中で自己表現のために3つを選ぶことのない人生を歩んできたな〜と思いながら本を閉じて、いや待てよ、と脳が疼いた。自己表現というか自己探求というか、いや全然そんなちゃんとしてないやつなんだけど、一個あったわ、あの、チャレンジザトリプルというやつ・・・・・サーティーワンの・・・・・・

書きながら恥ずかしくなってきたが続ける。サーティーワンの「チャレンジ・ザ・トリプル」というキャンペーンがあるのです。つまり「ダブルの値段でトリプル食べられる!」という最高の夏確約企画。普段シングルをチビチビ食べるだけでも満たされる美味しいアイス。暑い季節がやって来て、ダブル、食べたいな…という思いが募る中、「もう一個タダだし」という甘〜い言い訳をくれるのだ。さながら「自分の気持ちに正直になりなよ!」って背中をドンと叩いて最高の夏の思い出のきっかけをくれる気のいい友達(概念)みたいで、個人的にすごく好きなイベントである。

 

むせ返るような雨の夏の日、10代だった私が通りがかった今はなき下北沢のサーティーワン。そびえ立つ「チャレンジ・ザ・トリプル!」ののぼり。いつだって甘いものが食べたいけどこんな日のアイスは最高だ、と吸い寄せられるように入って、その後のことである。普段なら「え〜どれにしよっかな〜」とドキドキワクワクが止まらないはずのショーケース前において、今でも不思議になるくらいあの時の気持ちは静か、さながら凪いだ海のようであった。言うべきことは決まっていて、だけど覚悟を決めた瞬間胸が高鳴った。
寸分の迷いもなくショーケースの前を横切り、お姉さんに言い放った一言。

 

「チャレンジザトリプル、3つともポッピングシャワーでお願いします。」

 

いろんな味を試そうね〜という人生が豊かになるきっかけを与えてくれたサーティーワンに対してこの仕打ち。お姉さんも「3つともでよろしいですか?」って聞き返してくれたけどあのとき私は間髪入れずに「はい、3つともです」って返してた。私は自分に正直だ。好きなものは好き。欲しいものは欲しい。そんな気持ちに素直すぎるくらい素直に従って面白おかしく生きてきて、でもさ、今更だけど3つともはようやりおったねと今でも思う。

あまりに前置きが長くなったがポッピングシャワーが大好きなのだ。涼しげなミントグリーンのアイスの色。まったりとコクのある口溶け。そんな口の中に打ち上がるカラフルで甘い花火の鮮やかさ。キャラキャラと音が聞こえそうな躍動に毎度うっとりしてしまう。初めて食べた時の感動を毎回のように思い出せる時点で発明だ。

 

だからって3つともはやっぱりようやりおったのう。
今でこそ自分の機嫌を取るための選択肢として「背伸びした食」というものはほぼ第一に来るが、今よりもずっと若い時はあんまりそんな感じじゃなかった気がする。何かを達成した時に食に求めたのは「背伸び=質」ではなく、「量=量」であった。量はすなわちヤケ食い、逆に言うとヤケじゃない大量食いはスペシャルだった。たとえばスイパラなどの「食べ放題」は日常においてはやや高価で、立ち位置としてはご褒美とかスペシャルとかそんな感じ。自分のご機嫌取りにヤケより背伸びがきていると気づいた時「ああ大人になったなあ」と思ったものだったが、そういえばあの日のポッピングシャワー3兄弟は量感めっちゃあったものの気持ち的には背伸びだった。充足、ハンパじゃなかった。

 

蜜蜂と遠雷のテーマでもあったけど、才能ってなんだろう、というのはモノづくりを生業としようと願って生きていた身にずっと付き纏ってきた問いだったかもしれない。
いろんな姿の才能を見てきた。定義するのは本当に難しいけれど、たぶん、未来の光を信じ続けられる自信とか、輝く機会が巡った時に逃さない力とか、何を問われてもブレない想いみたいなものだと思う。そしてもちろんそれが全てではないが、才能を発揮する環境とそれを用意してくれる存在だって大事なもののひとつだとも思う。


もし、才能をそう定義するのであれば、あの日私は大好きなポッピングシャワーを大量に食べる才能があった。いっぱいポッピングシャワーを食べられると信じて入店し、チャレンジザトリプルのチャンスを作ってもらえたタイミングで、「3つともでよろしいですか?」と恥ずかしい質問を聞かれてもハイと答えてた。

書けば書くほど情けないくらいアイス大好きなだけの奴だけど、そんな私にもポッピングシャワーはいつもと変わらず素晴らしくおいしかった。

ポッピングシャワーを作ってくださった方もチャレンジザトリプルを考えてくださった方も人を幸せにする才能に溢れています。今も忘れられないほどの、楽しくて幸せな雨の夏の日をありがとうございました。

 

ポッピングシャワー、大好き。

たべもののまわりのはなし②:耐熱ガラスのボウル

もともとうちには金属のボウルがあったが、わざわざ耐熱ガラスのボウルを買い足した。金属のボウルはレンチンできないからというのが理由だったけど、耐熱ガラスのボウルは導入してみると最高に愛せる存在であった。

 

 

 

まず最初の理由であるレンチン、これはもう素晴らしい。硬い根菜もふわっとラップしてレンチンしてからの料理だと時短になるし、時短で言ったら発酵もレンジでできる昨今やはりガラスのボウルがありがたい。

予期してなかった喜びとしては透明な見た目が大きい。茹でたての素麺を冷たい水とゴロンゴロンの氷と一緒にボウルに入れたとき、あまりに綺麗でちょっと感動しちゃった。あと実用的なところで言うならば、底までちゃんと混ざっているか確認できるのも嬉しい。

ほかに嬉しいポイントを挙げるならお手入れだ。どんなに脂っぽいものを入れてもガラスなので洗い上がりがツルツル。ベタつきがかなり苦手なタチなのでそんなところも好きである。

なのでうちでは何となくガラスボウルの出番が多い。でも金属のボウル、それはそれで好きだ。軽いのでお米を洗うときは金属の方を手に取るし、電動泡立て器使う時も割れないから手に取る。

 

台所道具は一石二鳥も三鳥もやれるタイプのものが好きだ。2wayで着れる服は大抵1wayでしか着ないけど、キッチン道具はなんとなく別なのである。というのも、あまり沢山のものを仕舞い込むのが得意でないのだ。私はもともとミニマリストとは程遠くなんなら蒐集気質も全然ある性格で、長年の友人はむしろ素材別に専用のナイフを揃えてるとか、いろんなスパイスをガラス瓶に入れてディスプレイ収納をしていると言う方がしっくりくると思う。

 

お台所はそもそもの性格とは離れた位置にある場所のように感じる。沢山の専用の道具たちが息を潜めて出番を待つ場所にするよりは、あらゆる戸棚に滞りなく空気を巡らせたい。道具の管理が面倒ともまた少し違う、切り分けられた自我みたいなものが空間全体にある。暮らしを始めてからずっと不思議な存在であるが、同時にとても心地よい。

 

必要にかられて台所道具を買い足すとき、心の動きが本当に自然なのが面白い。あと、無理に欲しがって買ったり逆に無理に捨てたりすると決まって後悔や持て余しが残るけど、それもない。耐熱ガラスのボウルもふと「あ、要るな」と思って買い足して毎日のように使っている。たぶん、いわゆる身の丈というものが少し変化したときに自分に必要/不要なものが見えて、それに素直に従うのが私にとって大事なことなのだと思う。

 

我が家において耐熱ガラスのボウルはいわば空気みたいな存在、だけど、ただ空気として扱うにはちょっと嬉しさがあったりするので…山が近い場所の朝の空気みたいなものだとしておきたい。

 

耐熱ガラスのボウル、大好き。

 

ハンバーグはやさしいステーキ

年々、挽肉が好きになっていく。

 

前はなんか、お肉と言っても不確かな感じがして「すき!」という感じでもなく塊の肉至上主義的な時期もあった。間違いなく美味しいが、例えば野菜炒めとかに少し混ぜるとぐんと美味しくなる的な、極論、香り調味料とかに近いのかもとさえ思ってたこともあったり。

それが今やもう挽肉が大好き。そのままだと傷みやすい以外のデメリットが見つからない。不確かと思っていた歯触りは優しさとしか思えなくなった。

 

ハンバーグなんてその最たると言ってもいい。もはやあれは挽肉料理というよりもやさしいステーキだ。お箸やフォークでホロリと崩れたひと口分からは豊かな肉の香りに混じって玉ねぎの香ばしさが加わる。部位とかない代わりに(あるいはあってもいいのかもしれない。チョココロネの頭がどっちかみたいな話)、均等に柔らかくてソースとよく絡んでいる。食べ応えもしっかりあるのに重くのしかかってくることもなく、あぁ美味しかった!という時間の記憶を残してくれる。これまで挽肉じゃないお肉を使っていた料理に挽肉を用いると色々嬉しい発見というか、だいたい「うっま!」と思わずいうタイプのよろこびがある。けれどハンバーグに関しては最初の記憶も最新の記憶も挽肉の塊であり、挽肉を美味しく食べる術として最上のものだとも食べるたびに思う。もはや滋味に近い。

 

柔らかい肉、というものに求めるものは少し前まで脂だった。グルメ番組で芸能人が悶絶する霜降り肉に何度思いを馳せたことか。とろける舌触りのあれこれを愛して生きてきた者として憧れざるを得なかった霜降り肉。カルビ。ステーキの白い部分。大人になったらお金を稼いで白米と霜降り肉をお腹いっぱい食べたいぞと、何度となく思った

 

しかし大人というもの、これはもう散々言われてきたことであるが脂ものを遠ざける。信じられなかったが私もその類の胃の変化の気配、足音、影、が見え始めてきた。ジャパニーズホラーみたいな現れ方をするそれは気づいたら日常に紛れ込んでいる。脂以外の喜びを年を追うごとに知っていく代わりなんだと思う。喜びだけでない。いい肉と同じかそれ以上に手に入れたいものに次から次に巡り会う。そして資産には限りがあるのだ。

 

そこで挽肉なのである。大人の今こそハンバーグである。比較的お手頃で柔らかい。子どもの食べ物ではなく、やさしいステーキとして燦然と食卓に輝かせようではないか。

 

あとなんたって挽肉は汎用性が高い。なので我が家ではハンバーグを作るとなると初見でびっくりする量の挽肉を買い、初見でびっくりする量のハンバーグを作って、食卓の太陽にしなかった分のやさしいかたまりたちを冷凍するのだ。

あれはいい。もちろんハンバーグとして後日味わうこともできるし、ほぐしてケチャップ混ぜてミートソースもどき、卵でくるんでオムレツ、中華風に味付けして麻婆なんちゃら、おいも潰して混ぜたコロッケ、ほぐして野菜と炒めて名もなきご馳走とか、とにかく使える。本当にありがたい。

 

そんな意味でも優しいんだ、ハンバーグは。お子様ランチの主役として愛されるだけじゃもったいない。ハンバーグは生活者のごちそうだ。

 

ハンバーグ、大好き。

たべもののまわりのはなし①:staubのお鍋の土地をください

このブログも始めてから3年が経ったらしい。今でもおかげさまで健康で、まいにち食べ物が美味しい。食べ物を食べて、選んで、料理して、楽しんで、生きている。食べ物に関わる全ての人に感謝でいっぱい。いつも本当にありがとうございます。

そしてたべもののはなしばかりしているブログではあるけれど、食器とか調理器具とかみたいな「食べ物の周りにあるもの」も同じくらい好きなので、そんな話も書いていこうと思う。
最初は初めて心から欲しいと思って買った調理器具、グレーのstaubのお鍋について書いていく。

 

 

 

---

 

「クリスマスには土地が欲しいな」

と伝えたのは夫と付き合って最初のクリスマスのことだった。
今でもパワー系だったなと思う。正確には土地というより区画、区画というよりスペース、スペースというよりも、スッカスカなシンク下の棚の一角。
私は憧れだけで買ったグレーの鍋を置く場所が欲しかった。

 

いつの頃からかインスタグラムは友人の近況を知るためだけでなく、情報収集のツールになった。
具体的には美しい住まいや美味しそうな手料理を発信してくださる方の存在を知る場所。そして私が素敵だと思う方のおうちにはほぼ必ずと言っていいほどstaubのお鍋があったのだ。「ああこんな暮らしがしてみたい、こんな素敵なお鍋で素敵なお料理を作れるようになりたい。」憧れは募りに募っていった。


staubは調べれば調べるほど未知の鍋だった。
まず高い。何万円、みたいな単位のお金をお鍋に見ることが初めてだったのでおったまげた。
そして繊細。最初のシーズニングという作業が必須?しかも強火が不向きで使い終わったら油を塗るらしい。それまでステンレスのヤカンやテフロンのフライパンをゴンゴンの業火に晒しガンガンに水で洗うことしかやってなかった私、戸惑った。
あと持ち手まで熱くなるらしい。持てないなんて持ち手じゃないじゃん。
何より重い。5kgってなに?簡単に痩せられないぐらいの重さ…すなわち御すには力がいる。力が欲しいか?シンプルに欲しい。

それでも憧れは止まなかったので、冬のボーナスで買った。グレーのstaub直径22cmのピコココットラウンド、今も毎日のように使っている。
箱を開けた時、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。持ち手にトリコロールのリボンを装って、紛れもない憧れがそこにいた。フランスから、ようこそ。

そして思ってたより大きかった。
今となってはなぜそんな説が流布しているのか不思議で仕方ないのだけど、買った当時は「スタンダードは22cm!」みたいな感じがなぜかすごくあった。結果としてかなり大きい部類で、個人的にはすっかり慣れたものの初めて買うならもう少し小さい18〜20cmあたりが使いやすいと今でも思っている。
当時実家暮らしだった私、さすがに専用の鍋を陣取るのも気がひけるけど油を塗った鍋をクローゼットに入れるのも憚られるなあ・・・と5秒くらい考えた結果、冒頭のように土地をねだった。戸惑いつつも快諾してもらったけど、5kgほどある鍋をリュックに入れて冬の街を歩くことになった。あの日は曇りだったことをなぜか覚えている。

 

こわごわ手を出したstaubだったけど、買ってから数年経った今もほぼ毎日のように愛用している。
カレーとかシチューとか煮物みたいなオーソドックスな使い方をすることもあれば、冷蔵庫の残り野菜と料理酒と塩をぶっ込んで蓋してほっといたらなんか美味しいのできてるみたいな世紀末料理に使うこともある。持ち手が熱くなるのは樹脂やゴムがないのの裏返しでオーブンに入れることができるので、お肉や魚はstaubに入れてローストするし最近はパンやケーキなんかも焼くようになった。

何より使用頻度が高いのは炊飯だ。我が家には炊飯器がない。夫が一人暮らしの時に炊飯器を買わずに燻製用土鍋を買ったという話を聞き(マジで当時びっくりした)、それならstaubでご飯を炊くを美味しいらしいよまだやったことないけど、と勧めたのがきっかけで鍋炊飯をスタートしたまま炊飯器を買わず今日に至る。
staubで炊いたお米は美味しい!米が立っている!という文言をよく見るし確かに美味しいと思う。個人的に炊いたご飯を冷凍→レンチンしたあともちゃんと美味しいのがお気に入り。一回に4合とか炊けるので、たらふく食べても冷凍ご飯ができるのが良い。ちょっと油っぽい炊き込みご飯とかをしても鍋なので丸洗いができるところも好き。

 

大きい鍋は未来への贈り物を作る気持ちになる。正直一回で食べ切ってしまうことがほとんどだが、多めに料理を作るという行為は未来の空腹を満たすおまじないだと思っている。staubの大鍋をかき混ぜるとき、私は未来をささやかに変える魔法を使えるのだ。

 

staubの鍋、大好き。

赤いジェラートは偶然

忘れられないジェラートがある。
イタリア旅行で出会ったそれを、冷たい食べ物が恋しい季節には必ず思い出してしまう。


何らかのベリーのジェラートで、それは本当に「偶然」通りがかった際に見つけたのだ。店のガラス越しのそれは信じられないほど鮮やかな赤色で、別の目的地に向かっていた道中だったのに思わず夫と2人して足を止めた。なぜここまで驚いていたかというと、その店が決してジェラート屋の構えをしていなかったからである。
イタリアといえばピッツァパスタそしてジェラートな気持ちでいっぱいだったので、旅行本に乗っているようなジェラートのお店はわざわざ足を運んだ。どれも素晴らしくおいしかったが(ちなみに個人的な感想だけど、元々バニラとかクリーミーな類のものが好きなのだけどイタリアで食べるジェラートは果物系の方が圧倒的においしかった)、そんな名店たちが掲げるような「うちは美味しいジェラートでやってます」な感じが一切なかった。
どちらかといえばカウンターのバーがメイン、その隣でタバコや日用品を売っているようなお店の、本当に片隅に、そのジェラートがあったのだ。

「惹きつけられる」って良い言葉だな、だって私たちいまその通りだもの、なんて思いながらその店に入って3口分くらいの量を買った。今思うと夕飯の前だけど食べたい、少しなら…という気持ちが正直すぎて笑える。
本当に綺麗な赤で、大きさも相まっておもちゃの指輪の宝石みたいだった。口に運んだ時の衝撃は今でも時々、全然アイスを食べてない時でも話に上るくらい。あらゆる全てのベリーの姿が思い浮かぶのに、どの風味も定かでなく素晴らしいバランスで絡み合っている。味の正体を追い求めるうちに爽やかに溶けて、冷たさと甘い香りと少しの酸味の記憶だけが舌に残る。その間も赤色は鮮やかで、果肉の混ざり具合によって色の濃淡があることに気づく。ほんの少しの量だったけど、数年前のことだけど、今も忘れられない思い出の味だ。一口ごとに悶絶してた私たちであるが、お店にいた間、他にジェラートを頼む人はいなかった。

 

偶然、という言葉に寄せる期待は意外と大きい。
思いがけない喜びと出会うことは人生の味わいのひとつだけど、そこには大抵「偶然」が含まれる。
偶然通りかかったら、偶然取った電話で、偶然手に取った何かで、もたらされる幸せが殊の外大きかったときそれは美しい思い出になる。
棚からぼたもちみたいなガチミラクルならずとも、とある行動が引き起こした意図せぬハッピーは実在する。例に漏れず私もその類は大好きで、その類の記憶は鮮烈に覚えがちだ。

セレンディピティ、に出会いたいなら、いつでも解決したい物事を頭の片隅に置いておくことですよ。と昔習ったことがある。ほんとうは偶然というものはなくて、いつもそのことについて考えてる人が世界の中に散りばめられた大小様々のきっかけに気付くのだとその時は教わったものだ。
一理ある。でも、うーん、言われてみれば確かにあのときはイタリアの美味しいものをなるべく食べたいみたいな頭でいた。けど片隅というには小さすぎるほどだったとも思う。それでも割と神秘的なぐらい魅了されたし、その結果出会った嬉しさに今もびっくりしてるくらいだから、どっちかというとセレンディピティというよりはガチミラクル寄りな想いでいる。

 

どっちも嬉しいのだ。セレンディピティのようななんとなくクレバーな感じで得られる解決感もたまらなく好き。だけどあの宝石ジェラートは旅先の奇跡として覚えておきたい。棚からぼたもち、瓢箪から駒、鰯網へ鯛、書けば書くほどノーテンキな情景の並びに、夕暮れの街に佇むバーの片隅の宝石を連ねておこうと思う。

 

ベリーのジェラート、大好き。

ホワイトソースは教えない

全てを包み隠さないことが愛である、とは思わない。
だとしたら、この気持ちは何と表現すれば良いのだろう?

と、ホワイトソースを作っているときいつも思うのだ。

 

ひとから得意料理は?と聞かれるといつも答えに窮していた。
どれもそこそこ、ほどほどに楽しく作って食べるので得手も不得手も意識したことがあまりなかったからだ。
大体好みのおいしさで、だけど大体お店で食べた方がそりゃ美味しい。
そこで思い立って夫に尋ねてみたのだった。私の作る料理で一番美味しいの、なに?

夫は少し考えて、ホワイトソース、と答えてくれた。
具体的にはホワイトソースを使ったあれこれ、例えばグラタン例えばラザニア例えばドリア。
ホワイトソース、好きだな〜。

なるほど、ホワイトソースか。
確かに手の込んでいる風だがあくまで手の込んでいる「風」を吹かせることができるというか、とても簡単で作りやすくそう言う意味でも私も大好き。
バター、小麦粉、牛乳。混ぜてトロンとした魔法のソースは冬のあれこれを何でも美味しくしてくれる。
言ってみれば冬の魔法だと思っている。さしずめ我が家で私は雪の女王ならぬホワイトソースの長である。
それ以来なんとなく、得意料理を聞かれた時はホワイトソースを使ったものを答えるようになった。

 

ところで急に惚気るが、夫は何でもできる人だ。
というか何でもできるようになってくれた。家事も応急処置も料理も、知り合ってからめきめきと腕を上げて今はどれも私より上手。
教えたことのほとんど全部を覚えて、できるようになってくれた。
きっといっぱい頑張ってきてくれたのだろうと感謝でいっぱいである。

同時に不安になった時があった。
この人に私は必要なのだろうか?
何でもできるようになって、私が知ってることも全部知って、
そしたらなんか、私がいる意味ってあるんだっけなんて思ったのだった。
だけど隠し事も助けないことも性に合わない。
それならば、と取った手段が、ホワイトソースのレシピだけは教えないということだった。
何でも伝えるし、何でも一緒にやるし、
だけど一番好きと言ってくれたお料理だけは教えない。
それが存在意義を示せるたったひとつの手段だから・・・。


思い返すとマジ当時のァタシかわい〜(笑)みたいな気持ちになる。
今ならわかるけど相手の足りないところを補うだけが存在意義ではないし、
相手にないものを教えてあげることだけが意味のあることでもない。
ホワイトソースを教えたところで私の価値は変わらないし、
彼にできることが増えるのは嬉しいことだ。


でもなんとなく、まだ教えてない。
ついそのままになってというより、これだって馬鹿げているけど、
いつかひとりでグラタンとかラザニアとか食べる時がきたら、それが私の不在を想うタイミングになってほしい。
それが家なのかお店なのかわからないけど、何でもできちゃう素敵なあなたが
そういえばホワイトソースは作れないな、と私のことを思い出してほしいなと思っている。

 

気持ち的には「いつかの未来に訪れるしっとり寂しい感動話」とかではない。
私たちはすごく自由な暮らしをしているのでお互いの不在も多くて、
お互い割と何でもできるからこそ好物にあやかって私のことを思い出してほしいな〜くらいの感じである。
たぶん彼はググって作れるようになるしその味は私の作るものとそう変わらず美味しいだろう。
だけど教えずにいたささやかな意地みたいな、思い出してほしいのはそんなことだったりするのだ。


今夜もレシピは内緒でラタトゥイユと重ねて夏野菜のラザニアにして食べた。
夏だってホワイトソースはおいしいし、夫との食卓は楽しい。

ホワイトソース、大好き。