たべもののはなし

食べることばかり考えてる

赤いジェラートは偶然

忘れられないジェラートがある。
イタリア旅行で出会ったそれを、冷たい食べ物が恋しい季節には必ず思い出してしまう。


何らかのベリーのジェラートで、それは本当に「偶然」通りがかった際に見つけたのだ。店のガラス越しのそれは信じられないほど鮮やかな赤色で、別の目的地に向かっていた道中だったのに思わず夫と2人して足を止めた。なぜここまで驚いていたかというと、その店が決してジェラート屋の構えをしていなかったからである。
イタリアといえばピッツァパスタそしてジェラートな気持ちでいっぱいだったので、旅行本に乗っているようなジェラートのお店はわざわざ足を運んだ。どれも素晴らしくおいしかったが(ちなみに個人的な感想だけど、元々バニラとかクリーミーな類のものが好きなのだけどイタリアで食べるジェラートは果物系の方が圧倒的においしかった)、そんな名店たちが掲げるような「うちは美味しいジェラートでやってます」な感じが一切なかった。
どちらかといえばカウンターのバーがメイン、その隣でタバコや日用品を売っているようなお店の、本当に片隅に、そのジェラートがあったのだ。

「惹きつけられる」って良い言葉だな、だって私たちいまその通りだもの、なんて思いながらその店に入って3口分くらいの量を買った。今思うと夕飯の前だけど食べたい、少しなら…という気持ちが正直すぎて笑える。
本当に綺麗な赤で、大きさも相まっておもちゃの指輪の宝石みたいだった。口に運んだ時の衝撃は今でも時々、全然アイスを食べてない時でも話に上るくらい。あらゆる全てのベリーの姿が思い浮かぶのに、どの風味も定かでなく素晴らしいバランスで絡み合っている。味の正体を追い求めるうちに爽やかに溶けて、冷たさと甘い香りと少しの酸味の記憶だけが舌に残る。その間も赤色は鮮やかで、果肉の混ざり具合によって色の濃淡があることに気づく。ほんの少しの量だったけど、数年前のことだけど、今も忘れられない思い出の味だ。一口ごとに悶絶してた私たちであるが、お店にいた間、他にジェラートを頼む人はいなかった。

 

偶然、という言葉に寄せる期待は意外と大きい。
思いがけない喜びと出会うことは人生の味わいのひとつだけど、そこには大抵「偶然」が含まれる。
偶然通りかかったら、偶然取った電話で、偶然手に取った何かで、もたらされる幸せが殊の外大きかったときそれは美しい思い出になる。
棚からぼたもちみたいなガチミラクルならずとも、とある行動が引き起こした意図せぬハッピーは実在する。例に漏れず私もその類は大好きで、その類の記憶は鮮烈に覚えがちだ。

セレンディピティ、に出会いたいなら、いつでも解決したい物事を頭の片隅に置いておくことですよ。と昔習ったことがある。ほんとうは偶然というものはなくて、いつもそのことについて考えてる人が世界の中に散りばめられた大小様々のきっかけに気付くのだとその時は教わったものだ。
一理ある。でも、うーん、言われてみれば確かにあのときはイタリアの美味しいものをなるべく食べたいみたいな頭でいた。けど片隅というには小さすぎるほどだったとも思う。それでも割と神秘的なぐらい魅了されたし、その結果出会った嬉しさに今もびっくりしてるくらいだから、どっちかというとセレンディピティというよりはガチミラクル寄りな想いでいる。

 

どっちも嬉しいのだ。セレンディピティのようななんとなくクレバーな感じで得られる解決感もたまらなく好き。だけどあの宝石ジェラートは旅先の奇跡として覚えておきたい。棚からぼたもち、瓢箪から駒、鰯網へ鯛、書けば書くほどノーテンキな情景の並びに、夕暮れの街に佇むバーの片隅の宝石を連ねておこうと思う。

 

ベリーのジェラート、大好き。