たべもののはなし

食べることばかり考えてる

レモンパスタを引っ越し蕎麦ってことにしよう

このご時世で変わったものは沢山あるけれど、我が家で一番変わったのは家の近くの街に詳しくなれたことだと思う。

お出かけ出来ないストレスはそれなりにあったけど、やがてインドアの喜び探求の方もそれなりに大きくなり(服よりインテリアを買ったりしてる)、電車がなんとなく億劫になって、とはいえ外に出るのは楽しいので自転車や歩きでのご近所散歩が大好きになった。

 

ある日曜日、隣町のイタリアンにお昼を食べに出かけた。お店の佇まいからして美味しそうだね〜と前々から話していたそのお店に入るのはなんだかんだ初めてで、うーん今っぽいねなんて話をしながら入ったことをなんとなく覚えている。小さな線路沿い、時々電車がゆっくり通る音がするその店には本格的な石窯があり、ナポリ風のピザが街のちょっとした名物だった。

ちなみに今もしょっちゅう行くこちらのお店、どのピザも美味しい。でも私たちが一番好きなのは、なんとなく頼んだのがきっかけで知ったエビとレモンのクリームパスタなのである。

 

プリッッップリの小エビが山盛りに乗った上から細かく刻まれた瀬戸内レモンの皮がふんだんにかかっており、テーブルに置かれた瞬間から爽やかな風にも似たレモンの香りに包まれる。クリームにはチーズが何種類も溶け込んでいて、濃厚なはずなのにレモンと相まってしつこくなく味の解像度が高いまま最後の一滴まで楽しむことができるのだ。細めの割に小麦の香りが芳醇なパスタに良く絡んで美味しいのはもちろん、余ったソースをパンにつけたって美味しい。

こんなパスタがあるなんて、たまたま住むことになったのにこの街はいいところだね………と心からの喜びを噛み締めていた。あまり縁がなかったけど周りに緑が多くて通勤に無理がないという理由で選んだ今の部屋を私たちはとても気に入っていて、更新して長く住みたいねと事あるごとに話していた。

 

だが、このたびこの家を離れることになってしまったのである。

 

詳細は控えるが、今年から住み始めた他の住民の方がどうしても問題を改善してくれず管理会社もお手上げ状態になってしまったのである。私も夫もそのことで摩耗し始めていて、それなら引っ越そうね、と話を決めたのだった。集合住宅である以上覚悟は必要なのかもしれないけれど、それにしたって寂しい。お願いが届かなかったことというよりも、この家を、街を、離れることを思うとしんみりしてしまうのだ。でも心身の健康には変えられない。この家にはたくさんのことを教えてもらったけれど、最後に「人生思い通りにいかないこともある」「他人は変えられない」を教えられるとはね、なんて心の中で毒づいてみたりしたものだ。

 

次の家も、地域こそ違うが緑の多さもアクセスも申し分なく、見に行ってとても楽しくなるくらいには気に入った。引っ越しに前向きになって家に帰ってきたときに「あ〜でもやっぱりこの街が好きだったなぁ」と言ったところ、夫に言われたのが「レモンパスタを引っ越し蕎麦ってことにしよう」なのであった。

 

どっと押し寄せる現実感。美味しかったパスタ。近所だから行きやすかったけどわざわざ行くには不便なところにある、それでもとびきり美味しいレモンのパスタ。正午の白い日が差して明るい店内も、BGMに紛れて聞こえる電車の音も、石窯に大きなヘラを入れてピザを焼く職人さん達の姿も、上品なウェイターさん達の立ち振る舞いも、大好きなお店が遠くなる。引越し蕎麦は私たちが食べるんじゃないんだよとかもうねどうでもいいんだよ、そうだよ、お別れに行こう、それが引越し蕎麦ってことでもう今の時期はいいってことにしようよって、そう思ったのだった。

 

でも、それだけ好きなものと出会えて本当によかった。もちろんそのレストランだけじゃなくて、思い出は春夏秋冬楽しくて美味しい。実に生き生きとした気持ちの良い暮らしだった。

 

近所のレモンパスタ、大好き。
遠くなってもまた行きます。