たべもののはなし

食べることばかり考えてる

蓮根とドーナツホール

蓮根の、特にきんぴらがめちゃめちゃ大好きである。トントンと薄切りしたのちアク抜きで酢水につけ、ゆすいだら酒砂糖みりん醤油いりごまでガーーー!っと炒める。唐辛子を散らしたり散らさなかったりしてそこはお好み。ちょっぴり酸味が残り、風味豊かでシャッキシャキ。食べるたび、しみじみ美味しいなぁと思う。

 

ひき肉やエビを細かくしたものを挟んで揚げても美味しい。輪切りだけじゃなく乱切りにしたって食感を楽しめる。すりおろしてつくねに入れるとフワフワだ。

 

まだ蓮根をそれほど好きじゃなかった頃が懐かしい。この食べ物を勧めるとき、大人はみんな「体にいい」ことを理由にしてきた。漢方薬だから(?)とか、喘息に効く(?)とか、あれこれ聞いた。本当だったのだろうか。

 

しかし今は好きで食べている。大人になるのは良いものだ。

 

そういえば、ドーナツの穴に対する哲学的はあっても蓮根の穴に対する哲学はない。穴そのものの形状が蓮根という概念を象徴してはいない気もするが、だからなのだろうか。

 

そもそもあの穴なんであるんだろうと思って調べたら、どうやら泥の中で生きる蓮という植物の呼吸の証なのだそうだ。葉から取り入れた空気をあの穴に蓄え、根に送る。なんと蓮根は根っこそのものではないらしい。そのことに驚いた。

 

呼吸の証。我々で言えば肺のような感じだろうか。何にせよないと生きて行かれない器官だと思うと有難い。というか健康に良いという主張もいよいよ信ぴょう性を帯びてくる。

 

しかしほんと、人間の食欲と好奇心には目を見はる。泥水の中から掘り当てた根っこのようなものを切ったら穴がたくさん空いていて、それを食べようと思うのは本当にわからない。穴空いてたらびっくりしそうなものだけど。先人の好奇心に生かされている、あるいは与えられてる楽しみの何と多いことか。

 

ドーナツの穴は不在によって存在の定型をもたらし、蓮根の穴は不在によって生命の維持をもたらす。不在は存在を作る。なんなら人間だって会えない時ほど思い出すじゃないか。もしも蓮根のない世界だったらと考えることで、見えない先人に思いを馳せてみようと思う。

 

蓮根、大好き。