たべもののはなし

食べることばかり考えてる

オイスターソース、お前だったのか

中華料理が好きだ。中華というジャンルのお料理が好き。青天井な高級中華より(食べたことない)、町中華とかチェーン店とか中華風調味料とかの「中華」が大好き!

 

でもそれらに対する愛情がどこに惹かれているのか自分でもあまり想像がついたことはなかった。
たとえば和食なら出汁や醤油の香り、イタリアンならオリーブオイルやチーズ、みたいな・・・「ジャンル全般に共通する、“ならでは”の味覚」的なものが必ず有る気がしているのだけど、愛の焦点が定まらないのだ。

長らくたっぷりの油が好きなのだと思っていたけど、無理矢理当てはめたような気持ちだった。
この愛を向けるべきはピリ辛でも山椒でもごま油でも鶏ガラでもない。なんなんだろう?という感じ。

 

わたしは種明かしもネタバレも大好きなのである。
なんですごいかわからなかったものの正体がわかったとき、すっごく嬉しくなる。言語化できない魅力に惹かれている状態が一番の愛なんて誰かが言ってたけど、誰かに「君のこういうところが好き」って言われたら、例えその人とそれ以来会わなくなったとしても褒められた部分は一生の宝物になるやろがい派。

 

なんの話?とにかく、「なんで美味しいのか」とか「何が好きなのか」とかすごく知りたい。
でも、中華は全然わかんなかった。通奏低音のように存在する風味が確かに有るんだけど、それがなんの味なのか不明な時期が長らく続いた。

 

そのもやもやは突然終わる。

 

東京駅の周辺で友達と会うことになっていたある夏の終わり。
行こうとしていたイタリアンが満席で建物内に二人分の席があったのは二店舗となりの中華だけだった。
まあそれはそれでとアタマを青島ビールに切り替えて向かい、メニューを見る。
小皿をいろいろ頼むといい感じのお店だったので郷に従うことにして、エビチリとか青菜炒めとか目星をつけていく。
ふと目に止まったメニュー、それが「牛肉と野菜のオイスターソース炒め」だった。
あ〜〜確かになんかまだ暑いし肉いいね、牛肉、それも野菜と一緒のやつ食べたいかも〜〜!
オイスターソースはしらん、なんかレシピ本とかに載ってるけど実物知らんわどうせ美味いっしょ、
と本当に軽い気持ちで頼んで、予想通りの茶色っぽい炒め物が出てきた。

 

そして一口食べたときの、あの衝撃。
「私の好きな中華」の味がした。概念である。
オイスターソース、お前だったのか。
炒め物に対して向けたことのない目をしていたと思う。

 

その瞬間から私の頭の片隅にはずっと、「オイスターソースやらを帰りのスーパーで買う」という情報がいた。
慣れないヒールで足が痛い時何をしていても常に脳の10%くらい「あしいたい」が占める感覚に近かった。
何が好きかわからなかった片思いの相手の魅力をクラスの男子がなんとなく言い当てて納得する、みたいな、
本当になんの変哲もないメニューの中に私が知りたかった正体があったのだった。
人生おもしれ〜〜〜!!!!!

 

あの日以来、常に我が家の冷蔵庫にはオイスターソースがいる。
なんとなく野菜をごま油で炒めて、オイスターソース垂らして、もうそしたら中華のアトモスフィア。
先人は本当に良いものを作ってくださった。ありがとう先人。ありがとう牡蠣。ありがとう海。ありがとう地球。

 

魅力の正体がわかってしまうと好きじゃなくなる?
んなこたぁないんだよ、その魅力を獲得した個性や過程は誰にも真似できないし、その正体の凄みを改めて想うことの方が私は多い。
オイスターソース・・・恐ろしい子!である。

オイスターソース、大好き。

 

ファミチキ・チューニング

以前、美食大国イタリアを訪れた。夫と2人して食いしん坊の我々、思いつく限りありとあらゆる美味しいものを食べた。

 

予想を遥かに上回る地上の奇跡の様なピザや、原始の地球からこの味付けだったのではと思うくらい味の調和の取れたパスタ、鮮やかで強い炎で調理した新鮮な肉魚野菜、果物もクリームもまさに昇華と称えて差し支えない濃厚な甘さのドルチェ、ドルチェ、ドルチェ。

 

あぁその結果、舌はもはや肥えたではない。別次元。アップデート。シンギュラリティ。2.0。脳裏の記憶すら美味しいと思える様になってしまった。幸せな旅だった。

 

しかし空港からの帰り道に夫が放った一言に私は爆裂同意した。

 

「あー…ファミチキ食べてチューニングしなきゃ」

 

ファミチキ…予想だにしていなかった5文字に掻き立てられた郷愁……それな!それな!!

企業努力と各店舗のたしかな調理による、安価でいつだって美味しいファミチキ。初めて食べたのは高校時代の放課後、当時の親友の髪型まで覚えている。コンビニのホットスナックとはなんとなく縁遠くいただけにあのジューシーでカリカリでいい香りのファミチキは衝撃だった。美味しすぎる!

 

衝撃「だった」。今は?「日常」である。日常へと変わったというより、日常へと進化した。

 

時と場合にもよるが、なんとなく私は日常の方が特別よりもちょっとだけ大切だ。たとえば、先の旅行で観てきた世界遺産の風景と、暮らしを営む家、その窓から見える外の風景、どっちが貴重?と言われたらすぐには答えられない。

なぜなら部屋の窓から見える景色もすごく大事。安寧の風景なのだ。日々起こる様々なことに心も身体も揺れるけど、部屋の窓の外の景色に大きく揺さぶられることはほとんどない(クソデカ鳥が来てたらブチ上がる)。ゆえに失うことは堪え難い、それが私にとっての「日常」という幸福だ。

 

して、ファミチキ…特別な食べ物だったそれは、いつのまにか私(と夫)にとって日常の象徴になっていた。なんとなく食べたくなって、手に入れることができて、いつでも美味しい。深夜残業で昂った精神も、空腹による落ち着きのなさも、ファミチキは癒す。そうして安寧、言い換えるとポジティブな意味で何をも考えなくて良い状態に整えてくれる。何も考えなくていい状態ってすごく贅沢。何でも考えられるから。

 

そのような感じで、イタリア来訪によって猛烈に進化した五感を日々の暮らしに落ち着かせるチューニングが必要…もはやファミチキは音叉のような役割を果たしてくれるまでとなった。

 

安易な進化は過去を捨てることにならないのだろうかと思っていた。だけど時間はひと続きで、どんな進化にも過去や今がある。イタリア旅行で進化した味覚でも変わらずファミチキは美味しいと思うのがその証拠だ。

 

そして、特別が日常になるというのは生きている上でものすごく嬉しいこと。最初の輝きが馴染んで薄れて霞んでしまうのではない。光沢のあるヴェールのように薄く広がって、日常をラッピングしてくれるのだと思っている。

だから大人になるに従って特別のハードルも規模も大きくなっていくけど、包まれるほど自分の選んだ方法で日々を生きることの確かさも増すのだ。キラキラのマトリョーシカみたいに、人生は続く。

 

ファミチキ、大好き。

花椒を好きなひとはいつだって優しい

今更ながら味覚というものは大変面白い。甘いしょっぱいだけでもかなりのバリエーションがあるし、素材にしか出せない「風味」(あぁ、、なんて素敵で的確な言い回し)というものがあったり、際立って美味しいと感じるものの背後にはひっそりと苦味が潜んでいたりする。

 

そして舌が受容する感覚という観点でくくって良いものかわからないけれど、人によっては辛み=痛みや痺れをおいしさとして感知できる。

私は辛いものはそこそこだが痺れはなんだか好きだ。病みつきになるとはよく言ったものだ。

 

マルエツとかで売っている日清の汁なし坦々麺はすごく美味しい。花椒がしっかりと香って、心地良い痺れを楽しむことができる。おまけに格安だ。

 

これを勧めてくれたのは、いつだって美味しいものが好きで美しいものをたくさん作る素敵な友人だった。花椒に対する愛と汁なし坦々麺の歓びをひとしきり熱弁したあと、彼女は一言

 

「シビれがたまんないんだよね。山椒とか大丈夫?よかったらぜひ」

 

と伝えてくれたのだった。

 

あーなんか、優しいなぁ…と、さりげない一言にすごく喜んだ自分に少しびっくりしたことを、今でも覚えている。

 

その後も私の周りで出会ってきた花椒を好きなひとは、みんなそれぞれに優しさを以って勧めてくれた。痺れ、大丈夫?と添えてから美味しい丼や麺やスープのプレゼンをしてくれる。そのたびに私は、そのひとが好きなものを知れたことに加え小さくても確かな優しさに触れた喜びを噛み締めている。

 

痺れは、えてして不快なものとして出会う。正座を続けた足だったり、腕をからだの下敷きにしたまま眠ってしまった朝だったり。人によってはその感覚がおいしさの重要な一面を担う面白さを楽しめることは、ニンゲンの喜びのひとつだと思う。しかし、それは全ての人にとってのものではない。それもまた面白い。

 

好きも嫌いも全ての人に共通した感覚ではないことは、会話のきっかけや優しさを表す機会を神様がくれたのだと思っている。

私の持つ愛が相手の持つ愛とイコールではないこと、私の感じる苦手が相手の感じる苦手とイコールではないこと。そのことを慮る必要性を考えるとき、なんだか暖かい世界だなぁと思ったりする。

 

また同時に、相手がどう思おうと私は強くこれが好きだと信じられる喜び。これもきっと、趣味嗜好がそれぞれに異なるからこそ得られる感覚なのかもしれない。

 

優しい友人たちのおかげで、花椒の刺激的なおいしさに触れるたびにいつもほこほことした気持ちになっている。

そして猛省もする、私はなんせ「今まで5億兆万回食べたけど毎回記憶がリセットされて一口目で美味しさレベルのデカさに困惑するほど美味しい!!!」みたいな大誇張表現をしてしまいがちなので…。

 

花椒、大好き。

 

レモンを何かの例えに使えるようなセンスが欲しい

今年の夏はやけにレモンが美味しい。

 

サクレのレモン味を皮切りにレモンがめちゃくちゃ美味しく感じる。最近はもう、ドレッシングもスイーツもご飯もパンも肉魚野菜の味付けのアクセントも、何もかもにレモンがとにかくハマる。叙々苑ドレッシングにポッカレモンを混ぜていただいたのは特にサイコー。うだるようなというほどでもないが、しかし爽やかさとは程遠い今日日の気候に差す一筋の陽みたいな味だ。

 

しかし昔は、なんなら最近までレモンはいっかな〜派であった。レモンアイスとバニラアイスがあったら絶対バニラだし、牛タンだってタレで食べたりしていた。レモンが美味しいと感じるのって何歳からなんかな〜とか言ってた。

 

なんなら昔好きだったレモンはキャンディーしか思い出せない。

でもずっと好きだった。特に10代の頃は本当に、好んで手にとるレモンはレモンの飴だけだったかもしれない。将来っていつのことだよ〜と思いながら過ごした小学生時代も、なんとかここを抜け出すぞと思いながら過ごした中学時代も、青春ってなんだろうな〜とぼんやり思いながら過ごした高校時代も、レモン味の飴はささやかなハッピーだった。

 

青春といえばつい先日、ポカリのCMがTwitterのトレンドになっていた。個人的な気持ちを書くとあのCM本当に大好きである。弾ける笑顔と一生懸命な歌声のラストに来る、スマホ越しの空の一つ一つが少しずつ違う青。距離が保たれたそれぞれのステージで躍動する水とともに踊る姿、姿、姿。「離れていても繋がっている」とも「繋がっていても離れている」とも言えるこの現状に重なって、でもとても綺麗で…好きである。

 

ちょっと前、それこそまだレモンをそれほど好きじゃない頃だったら、どんなポカリを見ても最初に抱く感想は「ポカリみたいな青春わたしには無かったな」とか、「大人の作る青春って当事者にはそうそうないもんだよな」とかだった。実際「爽やか!白とブルー!空!」とは程遠く、「湿気!黒と赤!自室!」な日々だった。

 

しかし今年は違った。かくも美しい青春の概念、それは多様で、ポカリはその一つに過ぎない。私の日々もまた彼ら彼女らのような眩しい光の中にある。そんなふうに思ったのであった。大人になるにつれてだんだん過去の輪郭がフンワリしてきていることは間違いない。どんな風景もめちゃくちゃボヤかすと溶け合う色になっていくが、自分の過去でそれが起き始めているのかもしれない。

 

大人になることも過去の意味が変わることも、今のところ幸いにして良い変化ばかりなので全く問題なく受け入れている。もちろん最初からそうではなかった。くっきりしていたものが曖昧になることも、造られた美しさの枠に自分の存在を何らかの形で当て嵌めようとすることもすごく怖かった。

でも今の気分でいうとそれらは感じず、あぁ、なんかすごーく色々あったけど、いい日々だったな…みたいな 例えると一つ一つの光に誰かの生活があるのはわかりつつ、その景色を綺麗だなぁと思いながら少し眠い目で夜の飛行機の窓から見つめているみたいな感じが近い。

 

レモン、梶井基次郎は憂鬱さの対極みたいな描き方をしていた不思議な果物、青春をとうに過ぎて大人になった私はその爽やかさに身を委ねて今年の夏を生きている。青春に限らず何らかの概念を美しく表すことに憧れて手を動かすが、まだ道は遠い。

 

この日々もいつか輪郭がゆるやかに溶けていくのだろうか。そのことを愛しく思い続けられることを願っている。記憶に香りが伴うなら、今年の夏はレモンの香りだろうか。それはなんだか、嬉しいことだ。

マッシュルームの海から、波打ち際は遥か遠く

お買い物って大好きだ。スーパーマーケットはなんであんなにワクワクするんだろう。一週間分の買い出しをするのだけど、カゴいっぱいの食べ物を見ると心が躍っちゃう。我ながら単純な性格だなあと思う。たくさん、うれしい!!

 

なのでいっとき、スーパーに何もなくなったあの日は本当にドキッとした。すっからかんと言うにはあまりにもすさまじい、虚。すっからかん、は、あっけらかん、と似ていてなんだかハッピーな言葉だったんだなあなんて思ったりした。こんなことすらも日常だった恵まれた日々に感謝した。

スーパーは相変わらずワクワクする場所に戻ったが(全ての関係者の皆様ありがとうございます)、今度は違う変化を見出すようになった。や、安い・・そして、多い?気がする。外食産業に行っていたぶんの材料が売り場に出るようになったからなのだそうだ。

 

そんな日々でお買い物をしていたある日、ふと目に止まった「マッシュルーム 500円」のラベル。おっ?と思ったその視線の先にあったのは、普段見知った姿のマッシュルームではなかった。

いわゆる普段のマッシュルームは紺色の四角いパックに入ったこじんまりとしたサイズ感のやつ。しかし、そこにあったマッシュルームはA4大の段ボールに入っていたのだ。え・・・でっか、え・・・・500円!?信じられなかった。例えばうっかり手を滑らして宙を舞ったスプーンがそのまんま鍋に入っていったようなポップな奇跡の面白さがあり、ニヤニヤしながらカゴに入れた(入りきらなくてそれすらもニヤニヤを増幅させた)。

帰宅して机に置き、改めてその大きさに見入る。いやあ・・・すごいことになってるんだな・・・と思いながら梱包を解いた。もう、もう、視界に入るマッシュルームの量ときたら、今まで生きてきて一番多かった。圧ッッッッッッッ巻・・・こういうことがあるから人生やめらんないなあ、と5分ほど感慨に浸った。

 

我が家は幸いキノコ好きの集合体だけど、いくら我が家が幸いのキノコ好きの集合体とはいえこの量のマッシュルームは一気には食べきれないなあと思ったので粛粛と冷凍保存と洒落込んだ。10個1セット、刻んでラップに包んでジップロックの一番大きいやつに入れていく。そして、それが、もう途方もない・・・4回やっても、40個分を包んでもまだまだある。遠い昔、海水浴に行く前に母が話してくれた「遠泳の帰りに満ち潮が重なって、いつまで泳いでも岸にたどり着けなかったときは本当に怖かったな」という話を思い出してしまった。きみたちもしかして満ちマッシュルームかい?もしかして増えてる?それとも今この瞬間も箱の中でキノコが育っている?500円一箱の永久機関買っちゃったんかな?

 

やっと包み切ったとき、そこには包みマッシュルームが8個分。途中で怖くなって20個をアヒージョに使ったので、合わせて100個。100個のマッシュルームが、今この瞬間私とひとつの時間と空間を共有している。終わった、終わったんだ。あとは冷凍保存をして、楽しみにいただくだけだ。マッシュルームは大好きだけどたくさん食べることはあんまりなかったので楽しみだ。どうやって食べようかなあ!実は洋食や中華はもちろんほうれん草と一緒に、みたいに和風に使っても美味しいのである。

 

思えば遠い昔に母が、疲れや冷たさに打ち勝ってどんどん満ちていく青くて大きい水を無事に泳ぎ切ったから、今私がいて、マッシュルームと向き合っているんだなあと思うと不思議な気持ちである。何が誰のどんな未来に作用するかわからない。未来が見えないというのはいいことでもあり悪いことでもあるけれど、冷凍したマッシュルームの使い道以上の未来がこの先あることは事実である。そのことを楽しみだなあと思える自分でありたいし、支えてくれるマッシュルームはじめ食べ物たちには感謝でいっぱいである。

 

マッシュルーム、大好き。

 

 

フルーツグラノーラは大丈夫って思っているうちは大丈夫じゃないんだと思う

家にいる時間が長くなり、格段にお菓子の消費量が増えた。「うーん、お菓子の量が目に見えて変わったね〜」なんて生易しいモンじゃない、必需品が一つ増えたと言わんばかりの雰囲気である。お菓子、美味しい・・・相関関係はわからないが家にいるとお菓子が美味しくなるのだろうか。

 

加えて不思議なのは、食べたいな〜と思うお菓子のチョイスが変わったのである。これまでは、特に仕事中ほぼ必ず欲するのはチョコレートであった。カカオと脂と砂糖の存在がなければ迎えられなかった朝、いったい幾つあるのだろうか。それが今や、欲して消費するお菓子のほとんどが小麦ないし穀物由来である。

クッキーマドレーヌビスケットケーキドーナツ菓子パン。陳腐な言葉で表すなら、ぜんぶめっちゃおいしい・・・。風が吹けば桶屋はなんとなく理屈はわからないでもないけれど、家にいる時間が長くなれば小麦製品が美味しくなるのはわかんない。でも美味しい。

 

で、お察しの通りではあるがシンプルに増量した。運動不足に加えて炭水化物が美味しすぎてしまい、ヤッバ・・・となるのをとうに超えていつも体重を測ってはニッコリしている。狂った微笑みだ。

 

一旦お菓子から離れてみることにしたが、なるほど厳しい。そこで、目をつけたのがフルーツグラノーラであった。フルーツグラノーラ。これまでは寝坊した際の朝食という立ち位置においてのみ需要があった君。見た目的には食物繊維も諸お菓子よりは豊富そう。ドライフルーツも入っていてなんだか良さそう。歯ごたえもある。お腹にも良い。

これを、禁煙でいうところのニコレットてきな感じで摂取しようと思ったのだ。切り替えて、徐々に減らせば・・・

 

そしてまあ予想通りっちゃ予想通りなんだけど全然減らないんだよねこれが。美味しすぎる。フルーツグラノーラ美味しすぎることない?朝食だけにするには勿体無いなマジで美味しい・・・全然減らない。なんならフルーツグラノーラが楽しみで食べてしまっている。なんというか情けないけどよろしくない。風味が良い意味で複雑で、また一口ごとに味が変わるのがもうダメ。過去の一口が素晴らしい思い出であり、今の一口が実に豊かで、次の一口が楽しみで仕方ない。

 

おまけに厄介なのはカロリー表示である。決して低カロリーではないものの、牛乳をかけた時と比べると低いのだ(逆にいうとシリアル界における牛乳の栄養価に毎度ビビる。牛乳大好きなんですけど)。したがってボリボリやるとき、低カロリー食品を楽しんでいるような錯覚に陥る。「もしかして私、食生活ヴィクシーモデルなのでは?」

錯覚なのはわかってる、でも大丈夫って思っちゃう。全然大丈夫じゃないんだよね。わりかしいろんな事物において大丈夫って思っているうちは大丈夫じゃないけど、フルーツグラノーラも全然その範疇。○○なら大丈夫って思うのは何故なのか。万物、ナメてはいけない。れっきとした美味しい小麦製品なのである。

もっというと食べ終わるまでなくなりかけてることに気づかない。ほんと「あれ?ないや」でいつも終わる。一番大事なものがそうなる前の疑似体験だと思うとゾッとする。もはやフルーツグラノーラは教訓である。

 

ダメなのはお菓子でもグラノーラでもなく私の弱い心なのだ・・・そんなことを思いつつ、甘さと香りにいつも幸せをもらっている。最大値の幸せを感受すべく、量に関してはほどほど、そこそこを目指したい。

 

フルーツグラノーラ、大好き。

ミラノ風ドリアを食べてからライブを観にいった

サイゼリアのミラノ風ドリアは美味しい。中学生当時読んでいた雑誌に「安ウマ!マックよりサイゼ!」と掲載されていたのを見て「ファミレスなのにこんな安いの!?」と俄然興味を持った。親にせがんで連れていってもらってから夢中になり、高校時代、大学時代とよくお世話になった。晩御飯を家で食べる実家住まいの私にとっては、サイゼといっても重大な気分転換であり、ミラノ風ドリアといっても立派なイタリアンだった。半熟卵が乗った贅沢バージョンが殊の外好きであった。このブログをご覧くださっている皆さんには、ミラノ風ドリアにどんな思い出があるだろうか。

 

去りし2月某日、東京ドームにてライブを観にいった。それこそミラノ風ドリアが大ご馳走だった頃からずっと、愛してやまないアーティストさんのライブ。友人が余ったチケットを譲ってくれて、夫を誘っていったのだった。

夫はというと、そのアーティストさんは代表的な曲はいくつか知っているものの、あまり興味を持って生きてこなかったらしい。音楽の好みは人それぞれである。一緒に来てくれるだけでもありがたい。

 

さて、東京ドーム周辺という場所は土地柄ファミレスがとても多い。私たちは普段外食をあまりしないか、するときはスペシャルな感じですることが多いため、付き合っていた頃からファミレスに行ったことがなかったのだ。

しかしお互い、ファミレスは大好きである。なんでも食べたいものにアクセスできる品揃えはもちろん、ドリンクバーや店員さんを呼ぶ押しボタンといった備品も心踊る。サイゼでいったらもちろん間違い探しはマストだ。あれは定期刊行されている間違い探しの中では地球上で一番難しいのではないだろうか。

 

そして、満を辞してサイゼリアに行ったのである。店の扉を開けた瞬間、暖色の内装に掻き立てられるノスタルジー。私も夫も10年くらい若い心になった。店内は夕刻にも関わらずほぼ満員。これだよね〜〜〜!!これこれ!!といそいそと席に着いた。

 

私の目当てはもちろん、ミラノ風ドリアだ。礼儀としてメニューにはなんとなく一通り目を通すが、やはり心は決まっている。一方の夫は、彼が学生時代によくサイゼリアで食べていたという肉料理を注文していた。「美味しいものを食べる」というよりも「お腹を満たすため」にご飯を食べていた時期が長かったというが、なるほどこのボリュームとこのお値段はありがたいねと納得する一品であった。

 

久々に会ったミラノ風ドリア(半熟卵は、あえて乗せなかった)。それはもう「久闊を叙す」と言っても過言でないほどの久方ぶり。だけど記憶の中のミラノ風ドリアと寸分違わぬ出で立ちでミラノ風ドリアは現れたのである。現れてくれたのである。

ああ・・・。あのえんじ色の分厚い陶器のお皿、グツグツと音を立てるホワイトソース、見ただけで柔らかいとわかるチーズ、芳醇な香り・・・。全てが愛おしい。全てが記憶の中で生きていた。変わらないという愛おしさがある。いや、変わっているのかもしれない、だけど記憶の中の美しいミラノ風ドリアを裏切らない形である。変わったことといえば、共に並ぶのが氷水ではなくグラスビールになったことくらいだ。

 

ふと夫の方を見ると彼もまためちゃくちゃ嬉しそうにしていた。きっと同じような感慨に耽っていたのだろう。互いを見合わせて笑った。

 

金属のスプーンで口に運ぶと、ハフハフと熱いがとても美味しい。イタリアに実際に行って現地の食事に舌鼓を打ったこともある。しかしこれは全くの別物、別の美味である。本当に美味しい・・・赤と白のソースの奥にある黄色いライスすらも滑らかに味わって、フチの焦げをカリカリやって味わい尽くした。大人になってわかったことだけどめっちゃビールに合う。2杯平らげてしまった。

 

そうして大変良い気持ちで向かったライブは、今まで見てきた色々なエンターテインメントの中でもかなり上位に感じる素晴らしさであった。培われてきた確かな技術と最新鋭のテクノロジーが融合してまたとない空間を次々に作り出していくさまは圧巻であった。ああ、ここにいる方々の描いた夢と、たゆまぬ努力の先に、私はいるんだなあと思った。人生をかけて作り上げてきた空間を、受け取る側に座っている私。せめて、この人たちの夢の先にいる存在として強く正しく生きたいと、固く願った夜であった。この日がこれからの人生の初日であることを心から嬉しいと思った。

 

この日から1ヶ月と少ししか経っていない今日、ミラノ風ドリアもライブも遠い存在になっている。

 

不要不急ってなんだろうか。

ミラノ風ドリアを食べていた日々に、重要な話をした局面はない。しかしながら、私の心にとても優しい記憶をもたらす味はミラノ風ドリアにある。

この日コンサートに行けたアーティストさんの曲を聞いていた日々は、様々な変化を伴っていた。どんな時も、曲や声や佇まいに勇気をもらって生きてきた。

 

物理的に、生きる上で欠かせない栄養素ではないかもしれない。だけど、今日を生きることができている私を作る上で、欠かせない存在であることは間違いない。299円の一皿にどれほどの人が元気をもらってきただろうか。私も夫も、そのうちの一人である。

 

穏やかな日々、変わらない日々というものは意識せずとも貴重なはずで、だけどちょっぴりそのことを忘れてしまうような存在であった。誤解を恐れずにいえば、忘れるくらいが一番穏やかなのかもしれないと思う今日この頃である。

 

全部乗り越えて、ミラノ風ドリアが変わらぬ出で立ちで机に置かれたら。

嬉しくて泣いちゃうかもしれないな。

 

ミラノ風ドリア、大好き。必ずまた食べにいくからね。