たべもののはなし

食べることばかり考えてる

ファミチキ・チューニング

以前、美食大国イタリアを訪れた。夫と2人して食いしん坊の我々、思いつく限りありとあらゆる美味しいものを食べた。

 

予想を遥かに上回る地上の奇跡の様なピザや、原始の地球からこの味付けだったのではと思うくらい味の調和の取れたパスタ、鮮やかで強い炎で調理した新鮮な肉魚野菜、果物もクリームもまさに昇華と称えて差し支えない濃厚な甘さのドルチェ、ドルチェ、ドルチェ。

 

あぁその結果、舌はもはや肥えたではない。別次元。アップデート。シンギュラリティ。2.0。脳裏の記憶すら美味しいと思える様になってしまった。幸せな旅だった。

 

しかし空港からの帰り道に夫が放った一言に私は爆裂同意した。

 

「あー…ファミチキ食べてチューニングしなきゃ」

 

ファミチキ…予想だにしていなかった5文字に掻き立てられた郷愁……それな!それな!!

企業努力と各店舗のたしかな調理による、安価でいつだって美味しいファミチキ。初めて食べたのは高校時代の放課後、当時の親友の髪型まで覚えている。コンビニのホットスナックとはなんとなく縁遠くいただけにあのジューシーでカリカリでいい香りのファミチキは衝撃だった。美味しすぎる!

 

衝撃「だった」。今は?「日常」である。日常へと変わったというより、日常へと進化した。

 

時と場合にもよるが、なんとなく私は日常の方が特別よりもちょっとだけ大切だ。たとえば、先の旅行で観てきた世界遺産の風景と、暮らしを営む家、その窓から見える外の風景、どっちが貴重?と言われたらすぐには答えられない。

なぜなら部屋の窓から見える景色もすごく大事。安寧の風景なのだ。日々起こる様々なことに心も身体も揺れるけど、部屋の窓の外の景色に大きく揺さぶられることはほとんどない(クソデカ鳥が来てたらブチ上がる)。ゆえに失うことは堪え難い、それが私にとっての「日常」という幸福だ。

 

して、ファミチキ…特別な食べ物だったそれは、いつのまにか私(と夫)にとって日常の象徴になっていた。なんとなく食べたくなって、手に入れることができて、いつでも美味しい。深夜残業で昂った精神も、空腹による落ち着きのなさも、ファミチキは癒す。そうして安寧、言い換えるとポジティブな意味で何をも考えなくて良い状態に整えてくれる。何も考えなくていい状態ってすごく贅沢。何でも考えられるから。

 

そのような感じで、イタリア来訪によって猛烈に進化した五感を日々の暮らしに落ち着かせるチューニングが必要…もはやファミチキは音叉のような役割を果たしてくれるまでとなった。

 

安易な進化は過去を捨てることにならないのだろうかと思っていた。だけど時間はひと続きで、どんな進化にも過去や今がある。イタリア旅行で進化した味覚でも変わらずファミチキは美味しいと思うのがその証拠だ。

 

そして、特別が日常になるというのは生きている上でものすごく嬉しいこと。最初の輝きが馴染んで薄れて霞んでしまうのではない。光沢のあるヴェールのように薄く広がって、日常をラッピングしてくれるのだと思っている。

だから大人になるに従って特別のハードルも規模も大きくなっていくけど、包まれるほど自分の選んだ方法で日々を生きることの確かさも増すのだ。キラキラのマトリョーシカみたいに、人生は続く。

 

ファミチキ、大好き。