たべもののはなし

食べることばかり考えてる

花椒を好きなひとはいつだって優しい

今更ながら味覚というものは大変面白い。甘いしょっぱいだけでもかなりのバリエーションがあるし、素材にしか出せない「風味」(あぁ、、なんて素敵で的確な言い回し)というものがあったり、際立って美味しいと感じるものの背後にはひっそりと苦味が潜んでいたりする。

 

そして舌が受容する感覚という観点でくくって良いものかわからないけれど、人によっては辛み=痛みや痺れをおいしさとして感知できる。

私は辛いものはそこそこだが痺れはなんだか好きだ。病みつきになるとはよく言ったものだ。

 

マルエツとかで売っている日清の汁なし坦々麺はすごく美味しい。花椒がしっかりと香って、心地良い痺れを楽しむことができる。おまけに格安だ。

 

これを勧めてくれたのは、いつだって美味しいものが好きで美しいものをたくさん作る素敵な友人だった。花椒に対する愛と汁なし坦々麺の歓びをひとしきり熱弁したあと、彼女は一言

 

「シビれがたまんないんだよね。山椒とか大丈夫?よかったらぜひ」

 

と伝えてくれたのだった。

 

あーなんか、優しいなぁ…と、さりげない一言にすごく喜んだ自分に少しびっくりしたことを、今でも覚えている。

 

その後も私の周りで出会ってきた花椒を好きなひとは、みんなそれぞれに優しさを以って勧めてくれた。痺れ、大丈夫?と添えてから美味しい丼や麺やスープのプレゼンをしてくれる。そのたびに私は、そのひとが好きなものを知れたことに加え小さくても確かな優しさに触れた喜びを噛み締めている。

 

痺れは、えてして不快なものとして出会う。正座を続けた足だったり、腕をからだの下敷きにしたまま眠ってしまった朝だったり。人によってはその感覚がおいしさの重要な一面を担う面白さを楽しめることは、ニンゲンの喜びのひとつだと思う。しかし、それは全ての人にとってのものではない。それもまた面白い。

 

好きも嫌いも全ての人に共通した感覚ではないことは、会話のきっかけや優しさを表す機会を神様がくれたのだと思っている。

私の持つ愛が相手の持つ愛とイコールではないこと、私の感じる苦手が相手の感じる苦手とイコールではないこと。そのことを慮る必要性を考えるとき、なんだか暖かい世界だなぁと思ったりする。

 

また同時に、相手がどう思おうと私は強くこれが好きだと信じられる喜び。これもきっと、趣味嗜好がそれぞれに異なるからこそ得られる感覚なのかもしれない。

 

優しい友人たちのおかげで、花椒の刺激的なおいしさに触れるたびにいつもほこほことした気持ちになっている。

そして猛省もする、私はなんせ「今まで5億兆万回食べたけど毎回記憶がリセットされて一口目で美味しさレベルのデカさに困惑するほど美味しい!!!」みたいな大誇張表現をしてしまいがちなので…。

 

花椒、大好き。