セロリと大人になるということ
大嫌いだった。どれくらい嫌いかと言うと、セロリを食べる世界に生まれたのはなぜだと思うくらい。
それがいまや大変美味しい。セロリを食べる世界に生まれて嬉しい。
きっかけは、ミネストローネを食べた際にものすごくはっきりと「あ、セロリが美味しい」と認識したこと。香りも食感もものすごく美味しく感じて、以来もうセロリはとても美味しい。
香りが強い食べ物が年々好きになる。これは逆のことを言うと、香りが強すぎて苦手だったり食べられなかったりしたものが平気になっている。
もっと言えば、食べ物の香りに対して年を追うごとに鈍感になっている。
いや、いいのだ。美味しいと感じる好きな食べ物が増えることは幸せなこと!
しかし、生命体として感覚が鈍っていくことに対しての恐れを抱かないでいることはなかなか難しい。幼い頃は今よりもっとずっと舌も鼻も鋭敏だった。その当時セロリは、他にわかりやすいところでいうとパクチーやビールなども、きっと私の体には毒だったのかもしれない。
複雑な気持ちではある。感覚の鋭敏さを引き換えに新たに好きな食べ物を得た。大人になってから得る幸せは何かを失うことと等価なのだろうか。
しかし私はこうも考える。
失うばかりではないことは喜びだ。
嗅覚や味覚がただ衰えていって、セロリも(パクチーもビールも)苦手なままだったら、私は世界からの刺激を失っただけにすぎない。
新たな喜びを得られたならばそれで良い。それに、新たな喜びから新たな刺激を受ければ良い。セロリのほろ苦い味、茎そのものの爽やかな食感、やわらかな葉っぱ、翡翠のような淡い緑、鼻を抜ける香り。太陽をいっぱい浴びた元気な野菜だ。
子供が苦手な食べ物に対して「大人の味」とはよく言ったものだが、美味しいと感じるものが広がる喜びは大人のご褒美だ。セロリはそれに気づかせてくれた。
セロリ、大好き。