たべもののはなし

食べることばかり考えてる

ゆで卵と防衛本能

私は半熟にゆでたり焼いたりした卵がとても好きだ。トロリと黄色い黄身は本当に芸術品で、塩や醤油を垂らすだけであんなにも複雑かつ完成された味わいになるのはすごい。

 

「半熟」という名前も好き、卵の硬さが熱によって変わっていくことを熟すと表した人はつくづく天才だと思う。ただ、強いて言うなら固茹でよりも半熟の方が、半とは言いつつ熟している感じがする。

 

ところで半熟卵は、熱烈な愛好家がいる一方苦手な人もいる。(なんでもそうか)

 

類は友を呼ぶとはよく言うが、卵に関してはどうだろうと思うのだ。なんとなくではあるが、友人は半熟よりも固茹で派の方が多い気がする。半熟派で仲が良くて大好きな人も勿論いるが、しかし思い出すと割とあのひともこのひとも固茹で派と言っていたなぁと感じる。

 

食の好みが合致するから仲がいいとも限らない。固茹で派のあの子も、あっさりとした味付けが好みのあの子も、激辛マニアのあの子も、半熟こってり甘々ハイカロリー・ラヴァーの私と10年来の友達として仲良くしてくれている(サンキュー、ラブ)。

 

たぶん、固茹で派を思い出すのはある種の防衛本能である。

これは持論だが、脳みそは自らをそこから遠ざける=そこから身を守るためにネガティブなことを覚えやすい。どんなに楽しい一日でも、少々気がかりな出来事を際立って覚えてしまうことがある。しかし決してそれは己の暗さからくるものではなく本能がそうさせているから悲しむことはない。

 

なんの話かと言うと、固茹で派の方をわりかし覚えているのは、おそらく「固茹でが好きな人」というよりも「半熟が苦手」ないしは「半熟より固茹でを喜ぶ人」として覚えているような気がするのだ。「この人をより幸せにするのは、どちらかと言えば固茹で卵である」という考え方である。

 

私は半熟のゆで卵が好きなので、卵の茹で加減の好みを尋ねるとき無意識で半熟に寄った意見は私と同種とみなし、そうでないものを記憶していると思う。

 

ちなみに私は半熟ゆで卵が「好き」だ。これは独自の感覚かもしれないが、食欲性欲睡眠欲を筆頭とする本能というものをあらわにされると正直ひるむ。また、嫌いという感情となるべく遠ざかっていたいこともあり、私は好きなものの話ばかりしがちである。私のことは好きなものとセットで思い出されたいという思いから、防衛本能にささやかな抵抗を見せているのだ。

 

なのでこの先私とゆで卵を関連づけて思い出す稀有な機会に見舞われた暁には、どうか半熟のやつが好きだったなぁと思い出してもらえたら幸いである。ちなみに固茹でも、好き。半熟は、より好き。

 

ゆで卵、大好き。