たべもののはなし

食べることばかり考えてる

アスパラガスを丸ごと

「丸ごと」をあまり贅沢な言葉として捉えたことがなかった。しかし、アスパラガスを「丸ごと」茹でたものを食べたことでそれは変わった。

 

わたしの知る限り、大概のアスパラガスは火を通したのち一口サイズに切られて供されてきたし供してきた。みずみずしくて柔らかく一口ごとに栄養というものを感じる味だ。丸ごと食べる前からアスパラガスは大好きだった。

 

父の旧知の友人が、今は農家を継ぎ野菜を作っている。毎年リンゴを買っていてそれらは本当に美味しいのだが、その年はアスパラガスが豊作だったとのことでダンボールにいっぱいのアスパラガスが届いた。見たことのない長さ、太さ、色。手塩にかけられ、土に恵まれ、伸び伸び育つとこんなにもなるのかと驚いた。

 

さあそんなアスパラガスが届いて、いつも通りの食べ方なんて勿体無い。根元だけ削いで、大鍋に入れる!緑が鮮やかになったらお湯を切って白くて平たいお皿に盛る!上に半熟卵を乗せる!一本じゃない、ひとり三本!

 

見た目がもう最高も最高だった。えええ、こんな姿見たことないよアスパラガス!ナイフとフォークは用意したものの、思わず丸のままフォークを突き立てて、一口。

 

美味しかった、、あれはもはや衝撃だった。こんなにもアスパラガスの味わいをダイレクトに感じたことがかつてあったか。薄く塩味のついた部分がまず驚くほどの完成度なのに、半熟卵が絡まった部分を食べたらもう天国の光を浴びたような気持ちになった。夢中で、しかしゆっくり食べた。よく晴れた春の朝だった。

 

以来、「丸ごと」という言葉は贅沢なもので、あの日のアスパラガスを思い起こさせるものになった。丸ごとひとつ分が入った、というより、丸ごとの姿で完成していると解釈しがちにもなった。素材そのままの姿で完成品になるの、実は意外と普段見たことないものだ。そして大体それは大変贅沢な楽しみ方である。

アスパラガスは食の、というより言葉のあたらしい喜びを教えてくれた。

 

丸ごとのアスパラガスで好きな話がある。マネという画家、アスパラガスの束を描いた静物画を800フランで売っていた。ところがその絵をいたく気に入って1000フランで買ってくれた人がいた。マネは、そのお礼に「先日のアスパラガスから一本抜けてました」と一本丸ごとのアスパラガスを描いたそうだ。

 

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そんな素敵な話があるか。美術館でその話を読んで思わず立ち尽くしてしまったことを、思い出した。小さくて優しい絵だった。

 

アスパラガス、大好き。