たべもののはなし

食べることばかり考えてる

豆大福と許容範囲

豆大福、近年とってもすきなのだ。ふくふくと愛らしいビジュアルに豆粒がコロンコロンと表情豊か。お餅も餡子もたまらない甘さをしているが、その豆がちょっぴりしょっぱいことが甘さの中で非常に美味しい。

餡子の甘さもよりおいしくなり、豆の塩気も餡子の甘さで美味しくなる。交互に楽しめる上、不思議なことだが双方の美味しさが増しているような気さえしてくる。

おまけに食感もただ柔らかいだけじゃなくなり、飽きぬ。大福のお餅に塩豆を入れた人はほんとにえらい。人を飽きさせぬ工夫というのはなんとも難しいのに。

 

昔は豆大福、苦手だった。そもそも、餡子とお餅を食べたくて大福を手に取った時にそれ以外の要素があまり嬉しくなかったのである。同じ理由でいちご大福もあまり得意じゃなかった。

ところがどうだ、今はどちらも大変美味しく食べている。

 

大人になる楽しみって何だろうとふと立ち止まって考えることがあるが、私の場合はそのうちひとつに「許容範囲が広がること」、そしてもうひとつ、「こういうものもあると理解すること」がある。

 

初めは餡子とお餅以外を許せず、それらが含まれている事実を愛せなかった。だんだん、豆も苺も「まぁいいか」「こういうのもあるだろう」となった。

そのうち、「どれもそれなりに美味しいな」となり、今では「普通の/豆/苺大福が食べたい!」となる。

 

無意識のうちに経験値を積んで来たことで味覚にもこんな風な気持ちが現れるから生きるって面白い。許容範囲が増えると、結果的に「好き」そして「選択肢」が増える。選択肢が多いことは何かに拘るのと同じくらい重要だと思っているのでありがたい。

 

大事なことは、そこに無理がないことなのだ。無理やり許容範囲!無理やり好き!は、それまでだ。

この現象には時間と変化という概念が大きく関係すると思っているが、それらには逆らえないし、逆らわない方が賢明だと思う。それゆえ、無意識に、またはなんとなく、または気づいたら、「あれ、美味しいかも」と思えることは、時間の中で変化しながら生きる者の喜びである。その逆だって時にはあるが、それも一つのご縁だったのだろう。ただ、一度離れてもどこかで再会できた時、頑なにならないのは事物に対しての愛と品性だと思う。

 

生きてると、時とともに変わっていくことが多い。色々と、楽しく構えて時々ハッピーがよい。

 

豆大福、大好き。