たべもののはなし

食べることばかり考えてる

のし餅と文化

昔、父方の祖父の田舎では年末になると餅つきをしていた。親戚一同集まって餅を作り、自家で楽しむほかに農協かどこかに卸す分を作っていた。

 

そのときの形がのし餅だったのだが、なるほど「のし」とはよく言ったもので、本当に「のす」。専用の袋につきたてのお餅を入れ、麺棒でノッスノッスと伸ばしていくのだ。均等に伸ばすのは難しく、幼いわたしは大人の持つ腕力と経験値の凄みを感じながらボコボコ前衛のし餅を作っていた。前衛のし餅はもらって帰った。

 

私はそれまでお餅というものは海苔を巻いて醤油をつけるor雑煮しか知らず、納豆パックに専用タレとからしを入れるように、のし餅はもはや風習レベルでそういう食し方をするものだと思っていた。

 

ところが、そのお餅つきではいつもつきたてのお餅を、きな粉、ゆず皮入り大根おろしカラスミ、あんこ、等それまで想像すら出来なかったバラエティで味わわせてもらった。普通に醤油で食べてもほっぺたが落ちそうなのに、その味付けの数々は本当に素晴らしく。

 

お餅は自由に食べて良かったのだ。海苔と醤油だけではなく何を乗せたっていいのに、それを知らないが故に封じていた。文化を知るというのはこういうことだ。知り、普段の生活にもたらすことで豊かになる。なにも料理に限ったことでないが痛感した。持ち帰った前衛のし餅はそれはそれは美味しく食べた。

 

もっと言えば納豆だって専用タレとカラシじゃなくたっていいのだった。梅、卵黄、万能ネギ、オクラ、焼肉のタレ、ごま油、何でも入れていい、何にかけてもいい。禁じる法も咎める存在もどこにもない。

 

食べ物は、世界は、私が思うよりもずっと自由で可能性がある。それを狭めるのは他でもない私自身の先入観なのだ。

 

なので私はのし餅を見るたびに、それを気づかせてくれたことを思い出す。今の私は大人になったつもりで生きているが、果たしてのし餅を美しく作れるだろうか。あらゆる可能性をちゃんと見ようとし、実践して楽しんでいるか。

 

のし餅、大好き。