たべもののはなし

食べることばかり考えてる

桜湯のまぼろし

今年も桜の花が満開に咲いて、能動的に見つける/追い求めるタイプの喜びが街中の至る所に現れた。不思議な花だと思う。桜の花に対してなんの感慨もない、ということはあんまりなさそうだと、すべての人の気持ちなんて分からないのに思わせる花。

 

桜の花が咲くといつも思い出す風味がある。

 

私の通っていた小学校にも校庭に大きな桜の花があったのだけど、隣に同じくらい大きな八重桜の木もあった。雪に似た桜が舞う中、溢れそうなほど咲き誇る八重桜の風景が私は本当に大好きで、6年間春は嬉しい季節だった。

 

何年生の時かは忘れたけれど、ちょうど今くらいの季節のある日唐突に先生から出された提案を今も時々思い出す。

「八重桜の蕾を集めましょう。」というものだった。

 

上ったのか梯子があったのか、どうやって集めたのかは忘れたけど、落ちてるやつではなく校庭の木から今にも咲かんとしている紅色の蕾をいくつもいくつも摘んだ。その場にいた子たちの持つジップロックにそれぞれ積もるくらい。そして、帰ってからその蕾を塩漬けにしたのだった。

 

なんのためかと思ったが、その時説明されたのは「桜湯」を味わってみようという趣旨だった。お祝いの席で振る舞われるようなもので、蕾がお湯の中でやわらかに開いて美味しい春の飲み物だと。人生も初期、桜といえば桜餅。口いっぱいに広がるほのかな甘さを想像してすごく嬉しかった、のだが…

 

いざ、お茶碗に蕾を入れてお湯を注いで飲んだそれは、思っていたよりもずっと美味しく無かったのである。桜というかしょっぱかったし、我が家においてヤカンとは石油ストーブの上に常駐している存在であり、すなわちなんとなく沸かしきらなくて塩素の香りが残る液体である。ヘンテコなマリアージュ。花びらは広がったけどべちゃっとしてしまった。それきり飲まなくて、咲くはずだった蕾たちにはずいぶんかわいそうなことをした。

 

ところが今になって、その風味が恋しいのである。

 

白湯が年々美味しくなり、好みの甘さが淡くなり、塩気が美味しさになり…記憶の中の桜湯がどんどん美しい存在になっていた。

 

そんな桜湯を久方ぶりに味わったとき、あまりにも脳裏の美しい存在と今味わっているものの乖離がなくて驚いたものだった。湯の中を金箔が舞っていたとか器がつるんとした貝みたいで素敵だったとか、あの時との違いはあったけど…美しい存在が美しい存在としてもう一回現れてくれた日の記憶が、今はセットである。

 

ところで、桜湯を作って飲みましょうなんて言ってくれた先生、素敵な人だったんだろうな。

 

桜湯、大好き。