たべもののはなし

食べることばかり考えてる

ツナマヨおにぎりやけっぱち無双モード

ツナが長らく苦手で、マヨネーズもなぜか苦手で、したがって「ツナマヨ」というのはその文字面をもってしてもうっすら鳥肌が立ちかねない代物であった。

 

そんなツナマヨを、ましてそんなツナマヨを、お米に…初めてなんというか、読んだ時の気持ち的には「サラダ油をそのまま白米にON」と変わらなかった。ワァ〜〜…である。

 

さて、人間あまりにも悲しいことがあると行動の選択肢はふたつになると思う。しばらく何も出来なくなるか、或いは何でも出来るようになるか、である。

 

その日私はとても悲しかったんだと思う。今でこそ何でそんな気分になったのか忘れているが(つくづくハッピーなあたまである)、もうダメダメだった。そして、その日の私は後者の無敵モードであった。なんだってやってやる、出来てしまうはずだ、なぜなら私は今こんなにも悲しいのだから…

 

とは言え学生に取れる行動など限られており、とりあえず歩くだけにも疲れたのでひたすら悲しい気持ちでファミマに入った。そこにあったのだ。ツナマヨおにぎりが。

 

これを、食べたら…私は…

 

強くなれるかもしれない。食べもせず苦手だと決めつけ遠ざかっていたツナマヨおにぎりを食べてやれ。ツナマヨよりもずっと苦しいであろう怒り悲しみを味わったのだから、どうせならとことん苦しみをぶち込んでダークサイドに落ちてやれ。だって、そうしたら、上がるしかなくなるじゃないか。

 

ノーモーションでツナマヨを棚からゲットし、流れる水の如くレジへ向かった。小銭を払う音すら天使のラッパの如く脳裏に響く。もうすでに強くなったような気さえしていた。どうかしている。

 

こんな時は勢いが大切だ。たかがあくまでフィーリング、されどあくまでフィーリング。きっとこれを食べたなら気分なんて地の底になると信じてやまなかったツナマヨおにぎりに、かぶりついた!!

 

「…うめぇ……」

 

あろうことか、あろうことか、めちゃくちゃ美味しかったのだった。香り弾けるパリパリの海苔の向こうのふっくら白ごはん、その先に待っていたのは濃厚なタンパク質の旨味とジューシーな酸味、まったりとしたバランスの良い脂質のハーモニーだった。

 

信仰が文化の豊穣や心身の安全を妨げる例はこの地球に少なくないが、確かにあの瞬間は私にとってひとつのかつてない信仰の終焉であった。ツナマヨは嫌いなはずだから食べない方が良い信仰、美味しく楽しくエネルギーを補給する術を奪っていた食わず嫌いというしょうもない信仰だった。

 

やけっぱちがもたらしたブレイクスルー。底辺どころか美味しいことの喜びが私を元気にした。これから先、どんなに悲しくとも、どんなに予期せぬ動きでも、動けるならば動こうとツナマヨおにぎりを片手に決意したのだった。

 

ちなみに悲しくなくてもツナマヨおにぎりは普通に美味しい。ツナマヨ単体でムシャムシャ行くのはまだなんとなく勇気が出ないが、ツナマヨおにぎりは十分に選択肢として機能する。私を悲しみから救ったのは、嫌いと信じてやまない存在だったのだ。人生これだからやめらんない。

 

ツナマヨおにぎり、大好き。